今回の記事はなかなか内容が濃いので、心して読んでいただきたい。(自分で言うか)
「三日吹く風」は「ある訣別」という短編の続編に当たるため、未読の方は先に「ある訣別」を読むことをお勧めする。
この2つの短編の主人公であるニックと友人のビルは、「結婚で身を滅ぼすことは阿呆らしい」と考えている若者だ。大人しく家庭に収まり、義理の母にガミガミ言われ、腑抜け男になってしまうことへの恐れと嫌悪を抱いている。そうした所帯を持つことへの反発から、ニックは恋人マージョリーに一方的に別れを告げる。ここまでの話が「ある訣別」という短編になっており、その訣別の後に酒を飲み交わすニックと友人ビルの様子が「三日吹く風」では描かれている。
嫌いでないのにマージョリーを棄ててしまったことへの後悔。もう自分から会いに行くことができないという絶望。友人ビルの一言一言に揺れ動く若きニックの心理が手に取るように伝わってくる。
未読の方のために詳細は書かないが、この短編の締め方はいかにもヘミングウェイらしい。グチグチと悩みつづける負のスパイラルから逃れるように戸外へ出る。そして湖からの風を受け、きれいに悩みを洗い流す。
こうしたフィジカルに寄せていく描写は、「男はつらいよ」に通じると感じた。作品のムードはまるで似ていないが、寅さんのセリフにはヘミングウェイの短編に共通した思考の排除がある。
寂しさなんてのはなぁ、
歩いてるうちに風が吹き飛ばしてくれらぁ。
「寅次郎の告白」
理屈を言うんじゃないよ、大事な時に!
「寅次郎あじさいの恋」
そりゃ今は悲しいだろうけどさ、
月日がたてばどんどん忘れていくものなんだよ、
忘れるってことはほんとにいい事だよ。
「浪花の恋の寅次郎」
どれも最高でしょ。
ネチネチ悩みもだえつづける文学が苦手な私にとって、とても魅力的な言葉たちである。ヘミングウェイを好きな理由もここにあると言っていい。
話は変わるが、この短編は三人称で書かれている。「僕は」や「俺は」ではなく、客観的視点で「ニックは」という風に書かれている。
ヘミングウェイの三人称小説には、神視点が使われていないとよく言われる。「彼は落ち込んでいた」とは表現せず、「彼は目を伏せた」と書くというのである。ニックが悲しいかどうかはニック本人か神しか知り得ない。(だから神視点という) ジャーナリスティックなヘミングウェイの文体は、外から見えないことは一切書かず、常に客観的描写に徹しているというのだ。
この点について、「三日吹く風」で検証してみた。確かに客観描写が多いのだが、「いまのはいつもの自分の顔ではなかったが、それはどうでもよかった」「二人は顔を見交わした。とてもいい気分だった」「これからどうすればいいのか、ニックにはわからなかった」「そう思うと、気分が急に楽になった」「マージの件はもうさほど悲しくもなかった」といった具合に、ニック本人もしくは神しか知り得ない心情が実際にはいくつも書かれていた。
私は研究家ではないので正確なことは言えない。ただ思うに、ヘミングウェイは自らに課した厳密なルールのもとに執筆することもあったかもしれないが、多くの作品は直感的に書いていたのではないだろうか。「清潔で、とても明るいところ」の視点変換などにも、形式に縛られない自由さが見て取れる。
「老人と海」などの作品では視点が徹底しているのかもしれないので、この作品だけでは判断できないが。。。
「三日吹く風」を書いた20代の頃、ヘミングウェイはパリで暮らしている。クロズリー・デ・リラというモンパルナスの大通りに面したカフェでよく執筆していたという。
ヘミングウェイはカフェ・クレームが大好きだったらしい。
カフェ・クレームって何?
カフェ・オ・レとよく似ているが、ミルクを泡立てた場合はカフェ・クレームと呼ぶらしい。
カプチーノのどう違うの?
エスプレッソと組み合わせるとカプチーノになると思うのだが、間違っているかもしれない。カフェ・オ・レは朝の飲み物なので、フランスで普通に頼むのはカフェ・クレームのようだ。これもちょっと怪しいが。。。
ちなみにモンパルナスは芸術の街で、ピカソとか岡本太郎も暮らしていた。
「三日吹く風」という短編は、「十人のインディアン」とも共通性がある。辛い別れで負った深い心の傷であっても、時間の経過と自然の中に身を置くことで、意外とすぐに忘れられる、という点だ。しかし、本当に忘れることができたのなら、わざわざそのことを小説に書くだろうか。実際のところ、驚くほどデリケートなヘミングウェイは、時間と自然の力を借りながら、どうにかこうにか少しづつ立ち直っていったのだと思う。
前述の寅さんの言葉をもう一度。
寂しさなんてのはなぁ、
歩いてるうちに風が吹き飛ばしてくれらぁ。
その陽気で楽観的な口調の裏に、傷つきやすい繊細な男の自己救済への切実な欲求が見える。