「無趣味のすすめ」 村上龍

私事だが、地方取材の仕事が時々入ってくる。(ちなみに来週は日帰りで京都へ行く)
飛行機や新幹線での移動中によく「すべての男は消耗品である」を読み、誰にも媚びない力強く明快な文章に解放感と活力をもらっていた。

今回取り上げる「無趣味のすすめ」も、いかにも著者らしい歯切れの良いエッセイ集である。
表題の「無趣味のすすめ」というエッセイはとても興味深い。
乱暴に言ってしまえば、趣味の否定である。今の日本には趣味に生きる人がとても多いので、見方によっては好戦的なタイトルととれる。

登山、料理、ガーデニング、ゴルフ、カメラ、将棋、ランニング、キャンプ、どれも盛況だが、「趣味は老人のもの」と著者は斬る。好きでたまらない何かに没頭する子どもや若者はプロを目指すようになるため、趣味ではなくなる。趣味にハマっている人間は、基本的に老人なのだと著者はいう。

「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。」

甘えるな!と喝を入れるような容赦のない村上龍節がかっこいい。

例えば、アマチュアの将棋愛好家がオンライン将棋で戦う時と、プロ棋士が名人戦で戦う時、どちらがより興奮し、どちらの歓び・悲しみが大きいか。答えは言うまでもないだろう。勝てば報酬や名誉を得られ、逆に負ければ生きる糧やプライドを失う。そんなヒリヒリした感覚を、趣味で味わうことはできない。つまり趣味はローリスク・ローリターンな行為であって面白いわけがない、そう著者は主張しているのだ。

「自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない」

切れ味鋭い言葉だが、誰もが素直に受けとめられるわけではないだろう。
「自分にとって趣味は生き甲斐だし、これほど熱中できるものはない。趣味がなければ人生は虚しすぎる」
「人生を揺るがさなくても、楽しければそれでいいじゃないか」
といった意見も当然あるだろう。
なんだか、趣味肯定派と否定派の水掛け論になりそう。

著者が昨今の生ぬるい趣味ブームに苛立っているのはわかるのだが、「無趣味のすすめ」というタイトルの本を書いてまで否定するのはなぜなのか?

私の個人的な意見だが、村上龍という人はテニス、F1、キューバ音楽、ワイン、ゴルフ、サッカー等々、世界中を飛びまわり究極の趣味を探し求めつづけてきた人という気がする。すべてビジネス化してきたから趣味ではなく仕事だ、と著者は考えているようだが、ロジックとしてはやや無理がある気がするのだがどうだろう。他の方はどう見ているかわからないが、私には村上龍は趣味の達人というイメージがある。普通の人とレベルの違う濃厚な趣味体験をしてきた著者だから辿り着けた境地、それが「無趣味のすすめ」に思えるのだ。まあ異論はあると思うが。

チェス好きで知られるレイモンド・チャンドラーも、「人間の知性の手の込んだ浪費」とチェスを否定的に表現している。趣味は人を誘惑し、依存へ導くが、後に何も残してくれない。虚しさのニュアンスがそこには含まれている気がする。
私の偏った解釈かもしれないが、「無趣味のすすめ」は、究極の趣味を追い求めつづけた作家による、趣味への決別表明であり、趣味に生きる虚しさを説いた人生訓に思える。私は今も村上龍が好きだし、メッセージはしっかりと受けとめたいと思っている。趣味には歓喜も興奮も達成感も充実感もない、その言葉も全面的に信用している。

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