「風呂」 レイモンド・カーヴァー

「風呂」 レイモンド・カーヴァー

「風呂」は「ささやかだけど、役に立つこと」のショートヴァージョンである云々は紹介され尽くしていてるので今更触れたくないが、一つだけ押さえておきたい。

「風呂」の方が先に世に出ているので、「ささやかだけど、役に立つこと」の元になったように思えるが、実際はオリジナルロングヴァージョンというものがあり、それを短くしたのが「風呂」。その後でオリジナルロングヴァージョンを改訂したのが「ささやかだけど、役に立つこと」であるらしい。ちょっとややこしいが。

何が言いたいのかというと、この二作品は元こそ同じだが異なる短編として書かれたということ。古代インドの「チャトランガ」を起源にしているが、「将棋」と「チェス」という異なるゲームに発展したのとよく似ている。(この例え、要らないね)

「ささやかだけど、役に立つこと」は、ロングヴァージョンだけあって一つひとつのシーンが長めに描かれていて、キャラクターの特徴や心理がつかみやすい。逆に言えばソリッドさに欠け、テレビドラマのようだ。(テレビドラマ批判ではない)  エンディングもまったく違う。「風呂」は話の途中でブツッと急に終わるが、「ささやかだけど、役に立つこと」は結果を明示して、その後のエピソードにもボリュームを割いている。

訳者の村上春樹氏は「ささやかだけど、役に立つこと」が好みのようだ。ヘミングウェイ風にタイトな「風呂」に惹かれる人もいるはず。ムードが異なる2篇なので、好みは別れるところだろう。

あらすじは書かないが、誕生日の子どもが交通事故に遭うという辛すぎる話だ。カーヴァーは、直視できないくらい絶望的な題材を時々扱う。しかも、「風呂」には救いが用意されていない。執筆中の気持ちを想像すると、あらためてメンタルがタフな作家だと思う。

「風呂」と「ささやかだけど、役に立つこと」は多くの人がマスターピースと称賛する短編だが、パン屋は孤独で不気味だし、母親は刺々しいし、夫はどこか薄っぺらい男だし、惹かれる要素はほとんどない。正直、今回あまり再読したくなかった。

もちろん、ドラマチックで完成度の高い名篇とは思う。でも、短編で扱うにはちょっとヘヴィーすぎる題材という気がしなくもない。妙な意見に聞こえるかもしれないが、救いの無い「風呂」の方が私にはピュアな作品に思えた。「ささやかだけど、役に立つこと」には少しだけ雑味を感じた。偽善とは言わないが、特に後半むずむずしてしまった。ただ私の解釈が甘いだけかもしれないので、皆さんは自分で読んで判断してほしい。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)