『氷男』 村上春樹

変化を拒絶する人間は、氷のように冷たい人生を送ることになる。

異論はあるかもしれないが、これが『氷男』を読んでの私の感想だ。

あなたの周りにもいるでしょ、新しいことを常に避けて生きている人。誰が背中を押そうと、目の前にチャンスが転がっていようと、新たな一歩を踏み出さない、けっしてチャレンジしようとしない100%安定志向の人。

思い出すだけでもイラッとさせられる。

(一旦深呼吸)

この短編で描かれている氷男(見た目は普通の人間)は、未来というものに関心がない。未来という概念さえ持っていない。ただ過去が封じ込められたような男だ。あるがままに、清潔に、くっきりと過去だけがそこにある。

主人公の女性はスキー場で氷男を見かけ、自らの意思で近づき声を掛ける。それをきっかけに二人は付き合うようになり、周囲の反対を押し切って結婚する。そして氷男と二人で南極への旅に出る。

この女性は氷男に騙されているわけでも、洗脳されているわけでもない。氷男と共に居ることを望み、変化を避けて生きることを自主的に選んでいる。究極の安定指向と言い換えることができるかかもしれない。しかし、変化のない日々の中で心を失ってしまう。過去に囚われた冷たい場所で、生の実感と無縁に生きることになる。

個人的な感想ではあるが、『氷男』は生気に乏しい日本人への辛辣な風刺なのかもしれない。

繰り返しになるが、この女性は自ら氷男へ近づき、自ら南極旅行を計画した。氷男は戸惑いながら承諾しただけで、生きること(変化すること)を棄てたはこの女性自身なのだ。

南極は「生の無い世界」の象徴と見ることができるだろう。大袈裟なことは言いたくないが、とても重要な教訓を含んだ怖い短編だと思う。

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