『キングストン刑務所の脱獄囚、依然として逃亡中』(Escaped kingston covicts still at large)、このタイトルだけでピンとくる人はほとんどいないと思う。いるとしたなら、ヘミングウェイ研究家か熱烈なマニアくらいだろう。
未発表の短編ではない。ヘミングウェイがトロント・スターというカナダの新聞のフリー記者をしていた時期に執筆した記事である。5人もの凶悪な囚人たちが脱獄を図るという市民を震え上がらせる大ニュース。その記事の取材とライティングを若きヘミングウェイが担当し、1923年9月11日の紙面に大々的に掲載された。
読み終えた率直な感想としては、ハードボイルドなタッチが実に魅力的で、これが新聞記事?という印象を受けた。主観性が色濃く、客観的に情報を伝える報道記事というより、まるで犯罪小説の習作のようだ。
以下、一部抜粋。
漆喰の闇の中、監視員は自分の馬の頭すら見えなかった。しかし、道沿いの小川の南側で防御柵の鉄線が音を立てるのを聞いた。監視員は、遥か南に下った道に配備されていた捜索隊に向かって、大声をあげた。すると物音は止み、静寂が訪れた。4人の捜索隊員は銃を構えた。
それから闇の中、道路を横切っていく、さっと動く気配があった。看守たちは闇の中の物音に向かって発砲し、突進した。暗闇の中で声がした。「やられたのか、チビ助」
捜索隊のひとりが言った。「おい、逃げようってんじゃないのか、マクマラン」
マクマランは12の銃口を見た。「俺が何をやらかそうと思ってんだ。自殺か?」
彼らはマクマランを車にのせ、刑務所に向かって、彼が朝来た同じ道を引き返した。彼は静かだった。
下手な小説より小説っぽく、研究家でなくとも読む価値は大きいと感じた。本記事だけでなく、当時のヘミングウェイが書いた記事は、主観の滲み出たギクシャクしたものが多かったようだ。
ところで、なぜ目立った学歴やキャリアのない無名の若者を新聞社が雇い、いくつもの記事を任せたのだろう?
10代のヘミングウェイはイタリア戦線で砲弾を浴び、重症を負っている。ミラノの赤十字病院で出会ったアグネスという女性に心奪われるが、振られてしまう。失恋による傷心は「われらの時代」に収録された「ごく短い物語」という短編になり、シカゴに帰った後の虚しい心情は「兵士の故郷」という短編になった。
実際のヘミングウェイはイタリアから帰郷した後、カナダ国境に近い別荘で過ごしている。その時期に講演の依頼があり、戦争体験を語る機会があった。その時の聴衆の中にいた超セレブなご婦人が彼を気に入り、トロント・スター社に紹介した。そうしてフリー記者として働きはじめることになった。(地元の有力者の口利きは強力) 当時のアーネスト青年は生意気で、文章も粗いものだったようだ。
『キングストン刑務所の脱獄囚、依然として逃亡中』は1923年9月に掲載された記事だが、翌月には長男が生まれ、その年の年末にトロント・スター社を退職してパリへと渡っている。(ハドリーの財産を頼って) 渡欧後もヨーロッパ特派員として契約を延長し、結果的に約4年間フリー記者を勤め、2百ほどの記事を残している。派手にヨーロッパの国々を移動し、趣味と実益を兼ねた主観的な記事を書いてはカナダに送っていたようだ。本人にとっては作家として成功するまでのくいぶち稼ぎであったかもしれないが、記者時代の活動が作家修行になったことは間違いないだろう。トロント・スターで書いた記事は、その後の小説の中で断片的に生かされていくことになる。
フリー記者時代に書かれた記事は、トロント・スター社の倉庫、プリンストン大学、JFK図書館から大量に発見されている。完璧なコレクションとは言えないが「アーネスト・ヘミングウェイ ー トロント・スター全記事再録 1920年〜24年」などで読むことができる。
今回の記事は、エスクァイア日本版(1992年)の特集「若き日のヘミングウェイ。」を参考にさせてもらった。
「若き日のヘミングウェイ。」
最後に句点を入れるあたりが、エスクァイア日本版らしくて洒落ている。