「今日は金曜日」 アーネスト・ヘミングウェイ

*本記事は敬称略としていますのでご了承ください。

文庫にして僅か7ページの掌編ではあるが、改めて小説家ヘミングウェイの想像力とセンスと表現力を再確認することになった。「今日は金曜日」(原題:Today is Friday)を初めて読んだのはもう随分前のことになるが、不思議なくらいに何年も褪せることなく私の中に残っていた一篇だ。

唐突だがここでクエスチョン

「今日は金曜日」は何について書かれている小説でしょう?(答えは最後に)

この短編は、ゴルゴダの丘でのイエス・キリスト処刑について、実際に刑の執行を受け持ったと思われるローマ兵の視点で描かれている。とは言っても、処刑が執行された夜の酒場での兵士たちの会話だけで物語は構成されている。そのため残酷さやシリアスさはなく、赤ワインを飲みながらグダグダと話をしているという緩い感じが漂っている。

この短編には、三人のローマ兵が登場する。福音書の中に、イエスの死を確かめるために脇腹に槍を突き刺したという記述があるのだが、会話の内容からすると、おそらく三人のうちの一人がそれを実行した兵士と思われる。

ローマ兵の一人は「今日のあいつはなかなか立派だったと思うな」と終えたばかりの処刑の感想を述べると、他の一人が「ああ、あっぱれだったよ」と同調する。だが、もう一人のローマ兵は「逃げ出そうとしない人間などいるものか」とどうにも腑に落ちない様子を見せる。

酒場での会話を切り取っただけのような作品なのだが、このような視点から磔刑を描いた小説は珍しいのはないだろうか。間接的であるがために、逆に読み手の想像力を掻き立てる効果を感じた。今から約2千年前の出来事なのだが、その時の町の空気がリアリティをもって読み手の頭に立ち上がってくる。そういう意味では小説の力を感じさせてくれる一篇だ。

で、最初に出したクエスチョン「この短編は何について書かれているのでしょう?」の答え合わせをしよう。(とはいっても、単なる私の解釈に過ぎないのだが・・・)

素直に考えるなら、イエス・キリストの苦境やそれに立ち向かう姿に光を当てていると思える。そうした捉え方を否定しないが、私はこの作品はある種の恋愛小説だと考えている。

え、どこが?と思われるだろう。

「今日は金曜日」は、1926年5月にマドリードのホテルで書き上げたと著者自身は語っている。「殺し屋」と「十人のインディアン」も同じ日に執筆したとも。その時のヘミングウェイは、妻ハドリーと愛人ポーリーンとの板挟みで身動きが取れず、心底もがき苦しんでいた。もはや逃げ場のない状態にまで追い詰められていたのだ。その時の精神状態が「今日は金曜日」「殺し屋」「十人のインディアン」の三作品には顕著に出ている。浅い解釈かもしれないが、ヘミングウェイは、自虐的にローマ兵の方に自身を重ねているように思える。妻ハドリーや長男を裏切った罪の意識がそこに読み取れる気がした。

ヘミングウェイの中には、あまり注目されることはないがキリスト教へ一定の関心がいつもあったように思える。ポーリーンとの結婚を機にプロテスタントからカトリックに改宗したことはよく知られているが、都合上そうしただけでなく、もう少し思いは複雑だったという気がする。20代の頃、いくつもの教会を訪れては長時間祈り続け、涙を流していたというエピソードも残っている。神とは無縁の実存主義的世界を描く作家というイメージとギャップはあるが、実際には宗教的モチーフの作品はとても多い。

もともと神を信じる性格ではないが、キリスト教(特にカトリックの教会)には常々惹かれるものがあり、宗教との微妙な距離感の中で揺れ動いていたという感じだろうか。戦争体験によって神の存在を信じられなくなったといった見方もあるようだが、それでも教会が持つ癒しの効果を感じていたのかもしれない。(あくまで私の一意見なので異論はあるかと思うが・・・)

多くの作家は恣意的に書いている部分もかなりあると思うので、あまり分析的になりすぎない方が良い気もする。特にヘミングウェイは複雑でデリケートな人なので、いろいろな思いに揺れていたのだろう。このブログでは恒例ではあるが、今回もテキトーなまとめになってしまった。

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)

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