「二つの心臓の大きな川」 アーネスト・ヘミングウェイ

究極の名作か、それとも退屈なスケッチか。評価が分かれる短編かもしれない。「二つの心臓の大きな川」は、著者が25歳の頃に書いた、ヘミングウェイ研究に於いてとても重視されている作品だ。

この短編については、いろいろ書きたいことがある。

まず、「二つの心臓の大きな川」という邦題について。なんとも奇妙な印象を受けるのは私だけだろうか。原題はBig Two-Hearted River。big heartedには、「寛大な」とか「心の広い」といった意味がある。Two-Hearted Riverは、実際にミシガン州に存在する川の名前だ。「二つ心臓の大きな川」は直訳という感じで、語呂も字面もあまりしっくりこない。タイトルとしても覚えにくい。「大いなるトゥーハーティッド・リバー」とか「父なるトゥーハーティッド・リバー」ではダメだったのか。おそらく高見浩氏は何かしらの意図があって、あえてこの邦題にしたのだと思う。それ以上のことはわからないが。。。

この短編は、著者が10代の終わりに友人と出かけた一週間の旅行が下敷きになっている。実際に行ったのはフォックス川であったが、詩的な趣きがあるという理由でFox RiverをTwo-Hearted Riverに変えている。確かにTwo-Hearted Riverは響きもよく、洗練されたネーミングだ。

ザックを背負って歩き、野営地を見つけ、テントを張り、鱒を釣り、食事をこしらえ、毛布を敷いて眠る。冒頭からラストまで、淡々と(時に官能的ではあるが)主人公ニック・アダムスの行動が丁寧かつ正確に描かれている。「キャンザスシティ・スター紙」や「トロント・スター紙」で習得した表現手法や、愛読していたジョゼフ・コンラッドの影響などから、読み手に“まるで実際にそこに居るかのようなイメージ”を想起させる客観描写に徹している。ストーリー性はない。事件も起きない。出会いもない。誤解を恐れずに言えば、最後まで何もイレギュラーなことは起きない。

この短編は、戦争と失恋に傷ついた(壊れた)ヘミングウェイの心を修復すること、つまり自己救済がテーマと言われている。一つ一つの行動は宗教的な儀式のようであり、正常な精神を取り戻すためのセラピーのようでもある。

しかし、作中で戦争や失恋に関しては一切触れられていない。ヘミングウェイについての予備知識がない読者、他の短編を読んでいない読者が、戦争とは結びつけて読むことは難しいだろう。第一部のはじめに町全体が大火事で焼けおちたというくだりがあるが、これがニックの心のメタファーであることなど気づけるはずもない。

つまり、多くの読者にとっては、単に「鱒釣りを楽しむ男」の話に映るだろう。

私はそれで充分だと思う。細部まで分析し、意味づけをすることより、大切なのは瑞々しいインプレッションだと思う。「二つの心臓の大きな川」の描写は冴え渡り、細部まで透明感に溢れ、それは芸術の域にまで達している。予備知識など持っていなくても、その文章に触れるだけで心が浄化されていく。ニックの一つ一つの行動は、読み手にとっても自己回復や癒しの儀式になるはずだ。

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