「夜の樹」 トルーマン・カポーティ

当たり前のことかもしれないが、作家と読者の間には相性というものがある。小説のジャンル云々とか、書かれた時代がいつだとか、どこの国の作家だといったこと以前に、「合う合わない」という皮膚感覚のジャッジがはじめにある。それは、翻訳というフィルターを通しても消せない強い感覚だと思う。

「お互いに日本語をしゃべっているから意思の疎通ができている、というのは錯覚だ」は将棋の羽生善治氏の言葉だが、少しそれに近くて「別の言語を使っていても、自然と意思の疎通ができている、と思えることがある」という感じだ。

私にとって、トルーマン・カポーティという作家は相性が良い。ただ読んでいるだけで心地好く、作品の良し悪しもあまり気にならなかったりする。逆に、フォークナーはどうも苦手だ、作品のテーマとか質とか以前の話として。ただ、フォークナーの影響を受けているガルシア・マルケスやフラナリー・オコナーにはアレルギーはない。つまり、南部ゴシックは好きかどうかといったジャンルの問題ではなく、作家固有の文体への生理的な反応なのだと思う。

カポーティの文体のどこが性に合うのか。文章のスピード、なめらかな運び、適度な情報量といったものが、おそらく自分にとって違和感が少ないのだと思う。逆に言えば、他の作家の作品を読む時、詰め込みすぎ、ひねりすぎ、はしゃぎすぎ、飛ばしすぎといった過剰さを感じることがよくある。

ちなみに文体についてカポーティ本人は、意図的に努力して獲得できるものではなくて目の色と同じでその人そのもの、と語っている。

技術はもちろん相当に高いのだが、飛び抜けて文章のセンスがいい人だなと思ったりする。

「夜の樹」(現代:A Tree of Night)は、トルーマン・カポーティが20代の時に書いた代表的な短編だ。

19歳の女子大生が、叔父の葬儀から帰るため夜汽車に乗る。そこで異様な雰囲気を放つ男女と乗り合わせる。二人は、生き埋めにされた棺桶から脱出するという不気味な見世物を売りにする旅芸人。女は女子大生に無理に酒を飲ませようとする。男のほうは口がきけない。得体の知れない二人の奇妙な振る舞いに、女子大生は嫌悪感と不安感を覚える。耐えきれず列車の最後尾から表へ出て、冷たい空気を吸う。心が張り裂けそうになり、泣き出してしまう。そして、子どもの頃の恐怖の記憶が蘇り・・・

まるで映画を観ているように車中の様子や夜の樹々が目に浮かぶ。

この女子大生はとても孤独な人間であり、暗く冷たい過去の方向だけを見つめている。そう、カポーティ作品の主人公は孤独という閉ざされた世界に浸って生きているのだ。デリケートで艶やかな文章で、そうした内向的な人間たちの闇を幻想的に浮かび上がらせる。底なしに悲しいものを、丁寧に美しく描き出す。ここに、カポーティを解く鍵がある気がする。

訳者のあとがきで触れているが、「闇に対する恐怖と親近感の両義性」はカポーティ作品の重要な特徴だ。

子どもははじめ暗闇を怖がり、心細さに怯えるものだ。でも、いつしか暗がりに慣れてしまうと、そこが自分の居場所となっていく。外部から隔離された恐怖の世界が、同時に心落ち着く世界になるのだ。この両義性は、あまりに悲しい。カポーティ自身がつらい幼少期を過ごしたことはよく知られているが、恐ろしいトラウマから逃げ出そう、断ち切ろうとするのではなく、住み慣れた闇こそが彼のホームとなってしまったのだ。

もう一つの代表的な短編「ミリアム」に比べるとホラー的な要素は少ないが、どこにも逃げ場のない息苦しさはこちらが上。20代にしてこれほどまでに精度の高い作品を完成させたカポーティは、30代で「ティファニーで朝食を」、40代で「冷血」を書く。これら2作は広く知られているが、「夜の樹」や「ミリアム」などの短編をカポーティのベストに挙げる声は少なくない。早熟な作家は次第にアルコールと薬物に蝕まれ、66年の「冷血」以降は84年に他界するまで一つの長編も発表していない。過去の方向に進むことを選んだ作家は、真っ暗闇の中でどこにも未来へつづく道を見出せずに没落していったのかもしれない。

「夜の樹」は積極的に読みたくなる短編ではないが、「そっちへ行くと危ないよ」と教えられているようで、考えさせられる一篇だ。

夜の樹 (新潮文庫)

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