独断と偏見の作家紹介 トルーマン・カポーティ編

私はよく大型の書店へ行き、いろいろな作家の小説をランダムに手に取り、出だしの数行だけを読むことがある。数行で何がわかるのか、と言われそうだが、ファーストインプレションで大抵のことはわかると私は思っている。

「なんか狙っている感じだな」「クセが強くて読みにくいわ」「型にハマっていてありきたりだな」

ってな感じですぐに棚に戻す。(そういう直感は大抵は当たっているものだ) 決して多くはないがフィットするものに出会え、衝動買いしてしまうこともある。

「こういう始め方もあるのか」とか「続きが気になるな」と心踊らされる場合もあるが、「なんか心地好い」という違和感の無さに惹かれることの方が多い。

私がしていることは試食に近い。いくら老舗の名品でも、大ヒット商品でも、口に合うかは食べてみないとわからない。だから、ちょっと読んでみるのが手っ取り早いのだ。

ここまでカポーティの話を何もしていない。。。

試食でハズレが続いた時、私はそのまま帰るのが嫌で、カポーティの小説を手に取る。そして「やっぱりいいわ、間違いないわ」と唸るのである。

何が良いって、クリエイティブだし、表現に過不足がないし、流麗だし、文体については文句のつけようがない。パーフェクトなのである。

が、しかし、ちょっとばかりデリケートすぎる。そして内向的だ。カポーティはかなり迷信深い人だったようで、部屋番号が気に入らないという理由でホテルの部屋を変えたり、灰皿の吸殻の本数まで気にしていたらしい。そうした小さな迷信さえ越えていくことができなかった人だから、ピュアな物語を鮮やかに描けたのだろうが、そこには孤独なナイーブさがどうしても伴うことになる。

カポーティの短編の中に次の有名な一節がある。(確か「夢を売る女」だったかと)

「あらゆるものごとのなかでいちばん悲しいことは、個人のことなどおかまいなしに世界が動いていることだ。もし誰かが恋人と別れたら、世界は彼のために動くのをやめるべきだ。もし誰かがこの世から消えたら、やはり世界は動くのを止めるべきだ。」

繊細でしょ?とても綺麗だけれど、線が細いという印象を受ける。私としては、「個人のことなどおかまいなしに世界が動いているから、うじうじ過去のことに悩んでいても仕方ない。誰もお前のことなど気にしてない。」と強めに言ってもらった方が元気になれる。

迷信で思い出したが、健康ランドへ行った時のこと。靴のロッカーの前で迷っている夫婦が居た。4(死)がつく番号はダメ、9(苦)もダメ。理由はわからないが「30、17もダメ」みたいなこともぼそぼそ言っている。夫婦揃って縁起の良い数字のロッカーを探している。私は帰ろうとしていたところで、邪魔だなと思いながら見ていた。いろいろなものに縛られている気の毒な人たちで、運を味方につけているようにはとても見えなかった。

そう言えば、マイケル・ジョーダンの名言で「運命よ、そこをどけ。俺が通る」というのがある。いかにも、自分の道を運になど頼らず実力で切り拓いてきたジョーダンの言いそうなセリフだ。でも、オリジナルは  “Out of my way, your fate. I’m going through.” であり、どう訳したら「運命よ、そこをどけ」となるのだろう?私の英語力が低いせいかもしれないが、自分自身の運命ではなく、立ちはだかる的に対しての言葉に思えるのだがどうなのだろう。。。

あっ、何の話をしてたっけ?

立ち読みの話から始まって、健康ランドに逸れて、ジョーダンの話になってしまった。いつものこととは言え、あまりに奔放すぎる。今回の記事を締めくくる言葉はこれしかないだろう。

ごめんなさい。

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