『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ

村上春樹訳の新潮文庫版で、帯には「永遠の名作、みずみずしい新訳で待望の文庫化!」とある。新訳だからみずみずしいのか、村上春樹の翻訳文がみずみずしいのか、どっちなの?どっちも?まあ、どっちでもいいが。

冒頭からダルくて申し訳ないです。

この『ティファニーで朝食を』は1958年に出版された中編で、原題はBreakfast at Tiffany’s。映画が有名だがまったくの別物なので要注意。カポーティの原作を先に読めた人は心から幸せだと思う。先に映画を観てイメージができあがっている人は、読書前にまずオードリー・ヘップバーンを脳から完全に排除する必要がある。人間の脳は融通が効かないので「ヘップバーンを思い浮かべるな!」と言い聞かせるほどにヘップバーンが濃くなっていく。追い出すつもりが、頭の中が巨大なヘップバーンに支配されてしまう。この華奢な娘が読書の邪魔をしてくるのだ。「おい!俺の頭から出ていけ!!と思わず叫びだしたくなる。(ヘップバーンファンの皆様、ごめんなさいね)

そもそもカポーティはホリー役にマリリン・モンローを想定していたようで、真逆ともいえる人選に不満を抱いていた。しかも、「うちのオードリーに娼婦の役などさせられません!」とヘップパーンのブランディングを優先して脚本も大改訂。結果的に映画はヒットし、アカデミー賞やらゴールデングローブ賞やらにノミネートされたものの、カポーティは最後まで納得が行かなかったようだ。後に『タクシードライバー 』のジョディ・フォスターを見て、「彼女にホリー役を演じてもらいたかったわ」と話していたらしい。

ここから本題ねw

この中編を読み始めてまず感じたのは、半世紀以上も経っているのにまるで色褪せていないということ。驚くほどフレッシュなのだ。(みずみずしい新訳だからかな) どこをとってもよく練り上げられた見事な文章で、過不足がなく流麗で、心血を注いで執筆したことが一文一文から伝わってくる。翻訳でもそれが感じられるのだ。

ただし、文体には惹かれたが、社交界を奔放に泳ぐ天真爛漫な娘には惹かれるものがなかった。(あくまで個人の感想)

気まぐれ女に振り回される男たち?なんじゃそりゃ!という気持ちで読書していた。(中年男の戯言なのでお許しを)

個人的な好みとしては、そういう小洒落た都会の物語より

こういう↓無骨さに惹かれる。

こういう↓アーバンなセレブの戯れ事より

こういう↓ラギッドさに熱くなる。

思わず、オッサンの本音が出てしまった。グーグル・アナリティクスによるとこのブログは女性の閲覧者が約半数と多いらしい。(Why?)  ハードロックが好きだとか、ヘビー級のボクシングが好きだとか、空冷単気筒が好きだとか、アメフトが好きだとか言ってると、そのうち男9割になるだろう。

本音を言えば『ティファニーで朝食を』はタイトルから苦手だ。なんかムズムズしてしまう。どうにも相性の悪い小説と思いつつ読み終えたが、不思議なことに読後すぐに再読欲求が湧き上がってきた。物語の舞台や登場人物には何一つ魅力を感じなかったにもかかわらず、その端正な文体に惹かれて読み直したいと心から思った。推敲を重ねて磨き上げた文体は流麗でありながら力強い。筆が踊っているような才気溢れる若き日の作品より、この造り込み感が渋い。うーん、それにしても完成度が異次元。

この小説の主題は、イノセンス(無垢な精神)を持ち続けられるのか、ということかと思う。(合ってます?)枠に囚われず感性を解き放って生きる主人公。そのイノセンスの眩さと痛々しさ。いかにもカポーティらしい主題だと思う。

社交界は煌びやかだけれど闇が深い。私は社交界も芸能界も嫌いなので、『ティファニーで朝食を』の物語にも基本的に興味がない。(身も蓋も無いね) ただ、自身の経験をベースに練り上げられたバランスの良い文体にはとても惹かれる。『冷血』も読みたくなってきたが、ちょっと滅入りそうだし、長いし、どうしようかな。

さっきから同じことばかり言っている気がしていきたのでこのへんで終わりにします。最後まで駄文を読んでいただき、ありがとうごじぇました!

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