「かき」 アントン・チェーホフ

このブログを書くようになって、今まであまり読まずにいた作家の作品をよく手に取るようになった。本は出会うタイミングが重要だと思うので、昔読んだ作品を再読する機会も増えた。 アントン・チェーホフもそうした作家の一人だ。この数日、仕事の合間にランダムに読み、いろいろと感じるものがあった。「かき」と「富籤(とみくじ)」という短編が特に印象に残ったが、今回は「かき」を取り上げてみたい。

「かき」は、1884年に発表された少年を主人公した有名な作品で、130年以上も昔に書かれたものだ。(ここでの「かき」は、「柿」でなく「牡蠣」のこと)

舞台はモスクワ。小雨模様の秋の夕暮れ、五ヶ月間仕事を探したが見つからず、遂に物乞いをするしかなくなった父親と共に通りに立つ少年。真向かいの飲食店の店頭に見つけた「かき」の文字に興味を持つ。 牡蠣とはどのような食べ物かと訊ねる少年を、山高帽を被った二人の紳士が面白がる。そして、少年を飲食店へ引っ張っていき牡蠣を食べさせて笑う。

なんという切ない話だろう。読んでいてモノクロの暗い映像が頭に浮かぶ。とうとう物乞いをするまでに追い込まれた父親の横に子供が立っている。それだけでも充分にもの哀しい絵だが、さらに「牡蠣」によって物笑いの種にまでなってしまう。どこか落語を感じさせる滑稽なトーンで描いているため、陰湿さは感じないが、遣る瀬ない。個人的には、ユーモアよりペーソスにやられてしまった。

誤解を恐れずに言うなら、チェーホフの短編に描かれている世界はしみったれている。良い意味でも悪い意味でも。ドラマチックではない。ハートウォーミングでもない。ロマンチックに脚色されているわけでもなく、世知辛さをやたらと味わう読書だ。10代や20代でチェーホフを読むのと、辛酸をなめた中高年が読むのでは、感じられるものはかなり違ってくるだろう。人生にまだ夢や期待を抱いている年頃なら、こういう惨めな暮らしは全否定したくなるだろうが、中年になれば「現実がそういうところ」だと知っているため、じわっと心に染み入ってくる。

口当たりの良いもの、格好つけたものの欺瞞に気づく頃から、チェーホフは心に入ってくる。フラナリー・オコナーとかコーマック・マッカーシーとかもそうだけど、ムードとか関係なしに剥き出しのリアルを突きつけてくるタイプの作家の小説を読んでいると、気取ってるなよと咎められている気がして、なんだか嬉しくなってくる。

カシタンカ・ねむい 他七篇 (岩波文庫)

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