原題は What We Talk About When We Talk About Love。奇妙なタイトルに思えるが、カーヴァーにしては中身と合致していてそれほど違和感はない。というか、哲学的で心に残る名タイトルだと個人的には思ったりする。
「愛について語るときに我々の語ること」は、ニューヨーク・タイムズなどで大絶賛された著者のキャリアを語る上で重要な意味を持つ短編だ。
二組の中年カップルがジンを飲みながら「愛」について語り合うという設定で、それだけ聞くと大人のドラマのワンシーンをイメージするかもしれないが、カーヴァーがそういう類の洗練された話を書くはずがない(良い意味で)。会話の中で、昔の恋人との暴力沙汰など常軌を逸したエピソードが語られ、何かが露わになるようなアンバランスな空気がその場に生じる。何とも言えぬような奇妙な緊張が走る。この短編は4人の会話だけで構成され、特に何かが起きるわけでもない。劇的なクライマックスもない。それでも抜群に面白い。
訳者である村上春樹氏は、この短編を救済の傾向を内包した宗教的な光を感じる作品とあとがきに書いている。私の感想はそのようなポジティブなものではなく、関係性の危うさを感じる瞬間が何度もあり、不安で落ち着かない気持ちにさせられた。カーヴァーの描写が冴えているせいもあり、リアルに恐怖を覚えた。
レイモンド・カーヴァーと言えば、ミニマリズムの代表選手みたいな作家だ。海外のサイトを見ると、「愛について語るときに我々の語ること」もそちら方面での評価が高いようだ。(どちら方面?)
ミニマリズムとは何なのか?
文学の世界では80年代頃からよく耳にするようになった言葉だが、「最小限主義」とも呼ばれるように装飾を省いたシンプルな表現スタイルのことを指すらしい。事細かく説明しないことで逆に想像力をかき立て、物語に広がりや奥深さを与える。つまりは行間を読ませる手法である。そのものズバリを言うよりほのめかす方が人は関心を抱く。未解決事件が話題になるのと同じ心理だ。(例え下手)
カーヴァーが、狙いを持って戦略的にミニマリズムの手法を採ったとは思えない。カーヴァー本人はそのレッテルに不満を持っていたようだし、実際に大胆な省略を行ったのは編集者のゴードン・リッシュという人物だ。本人はプレシジョニストと自らを呼んでいたそう、精密派という意味だろうか。
つまり、カーヴァーがミニマリズムという形式に傾倒していたのではなく、80年代のポストモダンの実験性や複雑さなどへの反発とか、レーガンのような弱者を見捨てる社会への抵抗とか、いろいろ合わさって簡略化した表現に向かっていったのかなと想像したりもする。
それと、ヘミングウェイの影響も少なくないだろう。他の短編を読んでいる時にもしばしば感じるが、二人の文体は似ている。感情表現を抑え、平板な言葉で即物的に書くスタイル。作品が醸し出す匂いが大きく異なるのは、登場人物たちの生活環境がまるで違うからだろう。ヘミングウェイが描くのは、戦争にコミットし、闘牛に夢中になり、狩猟に没頭する非日常的な男の世界。一方、カーヴァーが描くのは、酒に溺れ、職を失い、妻といがみ合う白人の低所得者層の暮らしだ。
「愛について語るときに我々の語ること」や「大聖堂」は割と長く、ばっさり簡素化した短編という印象は受けない。ヒューマニズムの色も濃い。もしかしたら、こうしたミニマリズムで括れない作品にこそ本当のカーヴァーらしさがあるのではないだろうか。読み手が何を著者に求めているかは別として。