「雨の中の猫」(原書) アーネスト・ヘミングウェイ

和訳された「雨の中の猫」については、以前にこのブログで取り上げている。今回の記事は、原書「CAT IN THE RAIN」を読んでみての感想。

ヘミングウェイの短編と言えば、高見浩さんによる翻訳がよく知られているが、私がヘミングウェイに惹かれるようになったのも、端正で透明感のある高見訳によるところが大きい。私はヘミングウェイファンであると同時に、高見浩ファンでもある。

私の英語力は低いが、テイスト的に高見訳は原書に近いと思っている。しかしながら、この短編に関しては少し違う印象を受けた。

これまで「雨の中の猫」は、理想と現実のギャップが主題の短編だと思っていた。

原書を読んで感じたことはちょっと違う。

簡単に言ってしまえば、女性が子供っぽいのだ。私のリテラシーで細かなニュアンスを捉えられるのか?という不安はあるので、一意見として読んでいただきたい。

主人公の女性がホテルの窓から猫を見つけるのだが、「あの子猫、雨の中でとても不憫ね、放っておけないわ」という大人の目線ではなく、原書では「下のニャンコちゃん、濡れてかわいそう、わたしほしくなっちゃった」という少女っぽいトーンに感じられるのだ。(伝わりやすいようにちょっと誇張したが)

ラストの「食器がほしい!髪も伸ばしたい!ドレスもほしい!ニャンコちゃんも飼いたい!」という妻のセリフにも、大人の女性のアンニュイな嘆きでなく、欲求を抑えられない幼稚さが漂っている。夫はそうした妻の振る舞いを「そんなことばかり言ってないでさ」と適当にあしらうのではなく、「もういい加減に黙ってくれ」とキレ気味になっている。夫婦の倦怠というより、妻のわがままへの批判というトーンで、ヘミングウェイの本音がそこに透けて見える。

妻の呼び方も初めはAmerican wifeとしているが、途中からAmerican girlに変えている。彼女の言動によって幼さが露呈され、wifeからgirlに格下げされたかのようだ。

若い夫婦の間の、互いに対するゴツっとした嫌悪も原書ではじめて感じた。

それともう一つ。

途中、イタリア語で会話する箇所がいくつもあるが、原書では英語に訳されていない。つまり、イタリア語がわからないアメリカン人には理解できない。それでも前後の流れで、どのような内容かはだいたい想像がつく。翻訳版ではイタリア語にカッコ書きで日本語訳がつけられている。親切だとは思うが、元々は無いのだから忠実な方が良いのではないかと個人的には思ったりもした。

文学の捉え方は人それぞれなので、原書を読むことには意味があると思う。英語力が高くなくても、感じられることは意外と多いのではないだろうか。

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