この短編は、正直かなりヤバイ、そしてシンドイ。曖昧な表現で申し訳ないが、とにかく簡単に解題などしてはいけない類の作品だ。なんというか、死の匂いが強いのだ。私はこれまでにカーヴァーの短編をほぼほぼ読んでおり、再読している作品も少なくない。なのに、この「ブラックバード・パイ」だけは何故か未読であった。近づいてはいけない作品だと本能的に察知していたのかもしれない。(というのは嘘で、そんなカッコイイ理由ではなくて、食にまつわる話だと勝手に思い込んで興味が湧かなかっただけだ)
繰り返すが、かなりやばい短編、これが読み終えての率直な私の感想である。仕事として書かれた小説、楽しみとして書かれた小説、そういったものとまったく別の次元にある。命と同じ重さを持っている短編という感じだ。恐怖すら覚えた。この作品に向き合う覚悟は、まだ自分には無いような気もする。でも、頑張って続けよう。
原題はBlackbird Pie。まったく食べ物の話ではなかった。例のごとく、わざとズラしたタイトルが付けられており、パイではなく肩透かしを食らうことになる。(うまいでしょ) 「ザ・ニューヨーカー」(86年7月号)に掲載された短編で、カーヴァーは88年に他界しているので晩年の作品と言える。
あらすじはこう。(Wikipediaより引用)
当時、「私」と妻は夏の別荘に住んでいた。家の三方は草地や白樺の木立や、低くなだらかな丘陵に囲まれていた。子供たち二人はどちらもずっと前に独立して家を離れていた。
ある夜、部屋にいるときにドアの下から封筒が差し込まれるのが見えた。封筒には私の名前が書いてあり、その中には妻からの手紙に見せかけたものが入っていた。
濃い霧が窓の外に垂れこめていた。明かりのついたポーチには妻のスーツケースがひとつ置いてあった。ドアを開けるとそこに突然、霧の中から2頭の馬が現れた。1頭の馬の横に妻がいた。
彼女は言った。「ここに一人の女の子がいました。いいこと? ちゃんと聞いてる? そしてその女の子は、ある男の子をものすごく深く愛しました。自分自身を愛するよりもっと深くその子のことを愛したの。でもその男の子は――」
単純に読めば夫婦生活の崩壊という、いかにもカーヴァーらしい題材なのだが、いつものどこにでもあるようなリアルな生活感はない。全体が霧に覆われており、まるで夢の中の話のように幻想的だ。トルーマン・カポーティの世界に少し通じるものがあるかもしれない。訳者の村上春樹氏も書いているが、とにかくシュール(現実を超越している)。普通の精神状態では書けないような、奇妙なムードに支配されているのだ。
妻は去っていく。もう二度と会うことはない。夫はひとり残される。孤独な人間は、もう誰の心にも映らない。何一つ刻まない。もっとも身近にいた妻との別離により、この男の存在は消えてしまう。人生が終わるのだ。実際に生きることそのものに比べれば、手紙などまるで重要ではない。重要なのは残こされた言葉などではなく、実際に生きたことなのだ。
訳者が言うように、自身の創作への自嘲がそこにはあるのかもしれない。死の予感と創作への諦念がこの作品のコアであるのなら、なんて辛い作品なのだろう。こんな絶望と向かい合って執筆できるカーヴァーは本当にタフだと思う。それとも、もはや向かい合うしかできなかったのだろうか。