ヘミングウェイ作品への反応は、「惹かれる」「惹かれない」「わからない」の3タイプに分けられるのではないかと思う。
私は「惹かれる」人間であり、なにやら特別な絆を感じるくらい引き込まれることすらある。似た文体の作家は掃いて捨てるほどいるし、大自然を舞台にした小説だってごまんとある。誤解を恐れずに書くなら、ヘミングウェイは徳を備えた人格者とはお世辞にも言えない。それでも、惹かれるのはなぜか。最近になり、ようやくその答えを見つけられた気がしている。それは、私が密林の奥でようやく発見できたお宝である。端的に説明できないのでここには書かないが。。。
「インディアンの村」(原題:Indian Camp)は、ヘミングウェイ初期の素晴らしい名篇だ。暗闇の中、医者である父親と叔父と共にボートに乗り、お産のためインディアンの村へ向かう。冒頭のこのシーンを読むだけで、もう名作であると直感的にわかる。
ヘミングウェイの魅力がよくわからないという人にとってはごく普通のシーンに思えるかもしれないが、なんというか、私にとっては、俗な表現をするならディズニーランドのアトラクションのように胸が踊る。もし東京ヘミングウェイランド(THL)ができたら、私はきっと年間パスを買って通うだろう。(例え方を間違えているという自覚はある)
で、「インディアンの村」だが、ヘミングウェイにとって子ども時代の思い出の地であるミシガン州ワルーン湖畔を舞台にしている。ヘミングウェイの父親は外科医であったので、ある程度は実体験をベースにしていると思われる。
「雨の中の猫」や「兵士の故郷」などとほぼ同時期に書かれた短編だけあってクオリティは高い。それらの短編同様、普通に読むだけでも愉しめるが、解釈にはナイーヴな感性を必要とする。
この作品で描かれているのは、訳者の高見浩氏が巻末で解説しているよう、強く生きていこうという雄々しさというより、壮絶な生と死の現場から解かれた安堵感であるだろう。湖水の温かさは、確かに安らぎを感じさせる。ただ、そうであるなら「僕は絶対に死なないさ」という意思を表す一文は必要あるだろうか? 訳者は「大丈夫だよ、ぼくはきっと死なないよ」と自身を励ます感受性豊かな少年の心模様と説明している。そうかもしれないが、私には漠然とした自殺への恐怖心の芽生えに思える。20代のヘミングウェイの心のどこかに、自ら死を選ぶという選択肢が、目を背けたい危険なきざしとして存在していた気がするのだ。
「インディアンの村」は、壮絶なシーンが多いので、東京ヘミングウェイランドのアトラクションでは不人気になるかもしれない。やはりサメが襲ってくる「老人と海」は90分待ちとかになるだろう。「清潔で、とても明るい場所」のカフェがあれば是非行きたい。個人的には「蝶々と戦車」の舞台である、1937年のマドリードの酒場チコーテを再現してほしいかな。
何を書いているのかわからなくなってきたので、今回はここまで。
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)