「変人」 アントン・チェーホフ

ロシア最高の短編小説家といえば、やはりチェーホフだろう。今から150年以上前に生まれた作家なので、世界史の教科書に載っているような文豪というイメージを持つ人が多いかもしれない。確かに古いと言えば古いのだが、ドストエフスキーやトルストイより後の世代であり、今でも普通に広く愛読されている。「かもめ」とか「ワーニャ伯父さん」などの戯曲は日本でも頻繁に上演されている。一度も読んだことがない、という方のために、独断と偏見でちょっとだけ作家について紹介しようと思う。

1000篇という途方もない数の作品を書いたことは有名だが、かなり短いものも多く、食べていくためにとにかく書きまくったようだ。ユーモアたっぷりとよく形容されるが、それは雑誌や新聞から仕事をもらうためにそうする必要があったためで、心温まるような作風というわけではない。むしろ残酷さが漂う。話としては、「結局のところ、人間同士が理解し合えるなんてことはないのさ」といった諦念の色濃い内容が多い。起承転結はあまりない、感動のクライマックスはまるでない、理想の世界は描かれていない、誰が主人公かもよくわからない、ヒーローもヒロインも登場しない、悲劇か喜劇かもわからない、明確なメッセージもない、そういう感じの作家だ。

どこが良いのかって?不完全な人間たちのちょっと間抜けな日常を、離れた場所で笑いつつ書いている、そこが良い。「人生とはこういうものだ」とか「男たるものこう生きろ」といった信条や流儀とは無縁で、欠点だらけの人間を描いては、「だって人ってそういうものでしょ」と言っている感じだ。(ちょっと落語と重なる) マッチョさの欠片もなく、現実の哀しさを客観的に描いている。なんでも笑ってしまう強かさがあり、綺麗事を書くこともしない。

レイモンド・カーヴァーが人生の最後に書いた短編「使い走り」は、チェーホフの死を題材にしている。カーヴァーの人生にはチェーホフと共通する面が多く、ミニマリズムという点でも影響も受けている。

「変人」という短編は、その名の通り、変わった男の話だ。貫禄や威厳があり、正直で、公正で、分別のある男なのだが、偏屈で周りに人が寄りつかない。家族は何をするにもビクビクしている。その男の妻が産気づき、助産師を探して家に連れて帰るという話だ。

他の作品もそうだが、清々しい話ではなくて、ロマンチックでもない。シニカルで辛辣で毒がある。著者自身は貧しさに苦しみ(一家破産で夜逃げしたほど)、親の体罰に耐え、若くして結核を患った苦労人である。チェーホフの小説は、幸せに生きてきた人にはあまり響かない気がする。辛酸を舐めた人にとっては、とても重要な作家になるのではないだろうか。 1890年のサハリン島への旅を境に作風が変わったが、その辺の話はまた別の機会に。

チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈1〉 (新潮文庫)

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