「いたずら」(「たわむれ」) アントン・チェーホフ

沼野充義翻訳「チェーホフ短編集」の中の一篇「いたずら」を読んだ。「たわむれ」という邦題でよく知られている人気のある短編だ。沼野充義翻訳本ではユニークなことに、ユーモア雑誌に掲載された初出版(1886年)と著者チェーホフによる大幅改訂版(1899年)の両ヴァージョンを併記している。(チェーホフが結末をどう書き換えたのか読み比べることができる)

それら2つのヴァージョンには13年の間隔が空いている。初期のチェーホフはお笑い短編小説家だったため、初出版はノリが軽くてやや低俗。世に広く知られている改訂版の方が知的で奥行きがあり、読後の余韻も豊かだ。より文学性を高めた改変、という印象を受けた。

しかし、かなり奇妙な物語である。こういう話は私にはとても思いつかない。

主人公の男が、橇(そり)に女の子と二人で乗る。猛スピードで滑り降りる最中、小声で「す・き・だ・よ」と囁く。本気ではなく、いたずらとして。何度も同じいたずらを繰り返しているうちに、女の子は愚かにもその言葉の虜になっていく。男はうぶな女性の気持ちを弄んでいるだけで、醒めた気持ちで女の子の様子を観察している。

あまり気持ちのよい話ではないため、ユーモア小説と言われても素直に笑えない。むしろ残酷に思えた。写真を見てもらえればわかるが、チェーホフはものすごくハンサムだ。女性にモテたであろうことは容易に想像できる。もしカッコイイ作家ランキングがあれば、間違いなくトップ3に入るだろう。(1位かもしれない) 医者であり、作家であり、これほどの二枚目であれば、女性は放っておかないだろう。チェーホフという人には、ハンサム特有のどこか異性への醒めた態度があったのかもしれない。

読後の印象としては(改訂版の方ね)、「す・き・だ・よ」という囁きだけで心を奪われてしまう女はお馬鹿さんで、男の方も哀れで寂しく映った。なんだか虚しい話ではあるが、これが人生というものなのか…。チェーホフにスカッとした爽やかさを求めるべきではないが、もやもやが残る読書だった。

私にとって、チェーホフはいつでも気になる作家だ。でも今、この薄暗さは性に合わないかも、と思いはじめている自分がいる。玄人好みの作家で深みがあるのはわかるが、私はもう少し華のある方が好きかもしれない。良し悪しではなく、あくまで好みの問題として。

読書はいろいろ考えるきっかけをくれる。このブログを書くようになって、自分自身の嗜好も以前より明確になってきた。作品の解釈や好みが、このブログを読んでくださっている皆さんと違うことも多々あると思う。的外れなことばかり書きやがって!と思われているのかもしれないが、正直に書こうとしているだけなので、どうか大目に見てほしい。これからも本音で書くつもりでいるので、寛容な気持ちでお付き合いいただけると嬉しい。

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