かなり久しぶりに記事をアップする。8月に入り、暑いわ、忙しいわ、で読書と無縁の日々を送っていた。グーグル・アナリティクスをチェックしてみると、「あれれぇ~」ってくらいにページビューが落ち込んでいるではないか。 更新を怠けたことの当然の報いであるが、ミストサウナのような湿度の中で読書欲が萎えているのは私だけではないだろう。
では、本題へ。
村上春樹が「文學界」に発表した新作短編三篇のうち「石のまくらに」と「クリーム」の感想をすでにアップしているが、今回は残りの一篇「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を取り上げる 。
これら三篇はどこか死の匂いを纏っており、人生の総括ともとれるような深く重いテーマで通底している。(私はそう感じた) これは、著者の加齢によるものだろうか。もしかして春樹氏は大病を患っているのではないか、そんな心配もよぎったりした。ラジオに出演するなど元気そうなのでそれはないと思うのだが、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を読んでいる途中、自らが癌であることを知ったレイモンド・カーヴァーがチェーホフの最期に自身を重ねて書いた「使い走り」をふと思い出したりもした。でも考えてみれば、以前の短編にも重いものは多かったし、変わっていないと言えば変わっていないのかもしれない。なんだか、文章がグダグダしてきた。
最新作ということで、あらすじは割愛する。一言でいうなら、チャーリー・パーカー絡みの奇妙なエピソードを通して、精神と肉体の死について書かれた短編。(という気がしただけで、まったく別の感想を持つ方もいるとは思う)
この話、奇妙な逸話が初めに語られ、その後に謎めいた出来事が起こり、意味深な夢の話がそこに関わってくる。まるで輪廓のない映像を見ているような不可思議さが漂っている。
夏バテの私の脳では解読できる気がしないが、この作品から感じたのは、同じことを繰り返すことは徐々に死にゆくことであり、過去の成功にしがみつけば人は生きながら死んでいくという戒めだ。自ら作った型の中で保守的に生きるのではなく、心の奥底から湧き上がってくる声に従って生きよという。
まあ、まるで的外れな解釈かもしれないが、左脳も右脳もグダグダなのでこれが限界だ。(夏バテのせいにして逃げているだけだが・・・)
時間を空けて再読するので、その時に記事を是正するので長い目でみていただきたい。でも、どうしてこんなに言い訳ばかりしているのだろう。www