チャンドラーの小説とは10代半ばに出会い、権威や欺瞞、姑息さを嫌悪するフィリップ・マーロウの美意識(=チャンドラーの性分)に魅せられ、のめり込んだ。どこへ行くにも長編を一冊バッグに入れ、理解し合える唯一の友のように持ち歩いた。生きていく上でのバイブルを見つけた気さえしていた。30代になり、手に取ることが少しずつ減っていった。時々、適当にページを開いてみることはあっても、通して読むことは無くなっていった。
飽きた訳ではない。チャンドラーの小説はプロットがわかりにくいため、飽きることはない。(褒めているのか)
ある程度の年齢になれば、背負うものが増えていく。生き甲斐の欠落、失業の不安、介護の負担、夫婦の倦怠、アルコールへの依存、住宅ローン、パワハラ上司、疎外感・・・。人によって中身は違うが、たとえ独身であっても、健康に不安がなくても、誰もが何かしら抱えているはずだ。こざっぱり生きている方が珍しいのではないだろうか。
そうした暮らしの中では、マーロウの瀟洒なセリフはなかなか心に響いてこない。「ギムレットにはまだ早い」と言われても、何だかため息しか出ない。年齢を重ねるごとにチャンドラーが描く世界とは逆方向へ歩き、少しずつ遠ざかっていくような感じだ。
「湖中の女」(原題:The Lady in the Lake)は、1943年に刊行されたマーロウものの4作目で、「長いお別れ」(「ロング・グッドバイ」)の約10年前に書かれた作品だ。
香水会社の経営者からの依頼で、失踪した妻の安否を調べるマーロウ。足取りを追う中で湖の水底に女の死体を発見する。その女は何者なのか、依頼主の妻と関係しているのか・・・。
チャンドラー作品はプロットを重視していないので、あらすじはこのくらいにしておく。本作に限っては構成上の破綻はないが、どの長編もストーリーには重きを置いておらず、こう言うと身も蓋もないが「解題」にはあまり適さない作家かもしれない。
「湖中の女」は、「水底の女」という邦題で村上春樹翻訳バージョンが出た。もう出ないのかと心配しただけに、書店に並んでいてホッとした。チャンドラー全長編の翻訳貫徹は、素直に凄いことだと思う。本人は縁側で盆栽を愉しむように訳したというが、手抜くことなく、膨大な量の仕事を淡々とこなす。人生の先輩として見習いたいと心から思う。 毎回の、丁寧で思いのこもったあとがきも嬉しい。
冒頭の数ページを読んだだけで、やはり正確で信頼できる訳文だと感じた。凛とした清水訳、荒々しい田中訳、上品な村上訳、好みは人それぞれだろうが、誠実に訳された新訳の価値は大きいと思う。
本来のマーロウのキビキビ感がなく陰鬱なムードの本作を、村上春樹氏はあまり好きではなかったとあとがきに書いている。翻訳の順序も最後だし、そうだろうとは思っていた。確かに威勢の良さがなく、第二次世界大戦の影響もあるのだろうが、他の作品とは異なる静かで重いムードが漂う。
私が変わっているだけかもしれないが、チャンドラー作品の中で最も多く読み返しているのが「湖中の女」だ。鮮烈な印象を残さない分、ゆるい感じで手に取れるからかもしれない。年を重ねるごとにチャンドラー作品から距離ができていったと書いたが、本作は例外で、抑制されたトーンが心地好いこともあり今でもよく再読する。時代もあるのかもしれないが、あまりに気取ったセリフは苦手だ。どの作品とは言わないが、
「一日二十五ドルなのね」と、彼女はいった。「哀れな、淋しいドルさ」「とても淋しい?」「燈台のように淋しい」
的な歯が浮くようなのはちょっと厳しい。(悪くはないのだけれど、ぎりぎりアウトという感じ・・・)
次のセリフは、「湖中の女」の有名な冒頭のシーンだが、このくらいの地味な調子が好きだ。思慮深さを感じさせて、大人の男としてかっこいい。
「君の態度が気に入らんね」と、キングズリーはアーモンドの果を砕いてしまいそうな声でいった。
「かまいません」と、私がいった。「そいつを売っているわけではないんで」
いろいろ書いたが、今でもチャンドラーが特別な作家であることに変わりはない。プライドが高く、天邪鬼な性格も含めてとても愛おしい。年齢を重ねるほどに読み返す頻度は下がっているが、時々無性に浸りたくなり本棚へ走ることがある。(そこまで衝動を喚起する作家はチャンドラー以外にいない)
以前、「一番好きな小説は何ですか?」という記事の中で、過酷な旅の共として一冊だけ小説を持っていけるならチャンドラー作品にすると書いた。今でも、その気持ちは変わらない。どれだけヘミングウェイの文体の完成度に酔っても、オコナーの激しさに衝撃を受けても、チェーホフの描く世界が心に沁みても、やはりチャンドラーは特別であり、 永遠のMy personal heroだ。セロテープでつなぎ合わせたボロボロの文庫本はきっと死ぬまで大切にすると思う。