「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」 レイモンド・チャンドラー

面白かった。久しぶりにチャンドラーの小説を純粋に愉しむことができた。深めの時間に読みはじめたので、静かに物語の中へ入っていくことができ、潤いのある読書となった。

「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」(原題:Trouble is  my business)、このタイトルを知っている人は少ないのではないかと思う。長編に比べると知名度はかなり低いが、フィリップ・マーロウを主人公にした短編だ。長編と変わらぬムードをもっており、誰にも媚びない作家による、誰にも媚びない男を主人公にした、誰にも媚びたくない人のための探偵小説という感じだ。

初出の1939年時点では主人公の探偵の名はジョン・ダルマスであったようだが、50年に発表された中短編集では、販促的な意図があってかフィリップ・マーロウに書き換えられた。しかし、そういうことは読んでいて気にならない。マーロウものとしてまったく違和感がなく、どこから読んでもそこにいるのは完全にフィリップ・マーロウだった。初の長編「大いなる眠り」が世に出た年も同じく39年なので、その時点で孤高の探偵キャラは完成されていたと言える。

著者のレイモンド・チャンドラーは1888年の生まれ。アメリカでは1929年に株価が暴落し、33年まで景気後退が続いた。チャンドラーも大恐慌の煽りを受け、32年(44歳のとき)に石油会社を辞めている。職を失ったことをきっかけに、チャンドラーはダシール・ハメットが拓いた道を進むことを選ぶ。翌年の33年、パルプ・マガジンと呼ばれる大衆向けの雑誌「ブラックマスク」に初短編「脅迫者は撃たない」が掲載され、ハードボイルド作家としてのデビューを果たした。そして53年の「長いお別れ」までの約20年間、世界中の作家に計り知れない影響を与えることとなる珠玉の作品群を生み出していく。

「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」は初期の短編ではあるが、著者は既に50代に入っていたので、ある種の熟成がそこに感じられる。大人のための探偵小説としてのクオリティを充分に備えている。プロットについては、チャンドラーはストーリーで魅せる作家ではないので説明してもあまり意味がないだろう。短編ということもあり、訳がわからなくなるようなややこしさはない。後半でマーロウが順を追って事件の流れを説明するシーンがあるため、読者に親切とさえ言える。他のマーロウものと同様に、金持ちの依頼人、謎めいた悪女、卑劣な悪党、曲者の同業者らが登場し、マーロウを罵ったり、殴ったり、翻弄したりする。良い意味でのマンネリ。偉大なマンネリである。変化球を投げて期待を裏切るような野暮なことはしない。あえて不満を言うなら、ちょっと女性にモテ過ぎなところだ。あまりにモテると、なんだかチャンドラー自身がナルシストに思えてきて、マーロウへの同化の妨げにもなる。基本的に、小説の主人公はモテない方が良いのではないかと個人的には思う。でも、マーロウがモテないのはやはりダメか。そこらへんはさじ加減が難しい。

最後にマーロウのクールなセリフを一つ。深夜にちょっと痺れた。

「こちらさんはわたしが紳士じゃないとおっしゃった。こちらさんのような地位の人間だかなんだかにしてみれば、それですむのかもしれない。だが、わたしのような地位の人間は、相手が誰であれ、そんな冗談はいただけない。黙って聞き流すわけにはいかないんだ。もちろん、悪意でなければ、その限りではないが」

トラブル・イズ・マイ・ビジネス―チャンドラー短篇全集〈4〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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