『待っている』(原題I’ll Be Waiting)は1939年のサタデー・イブニング・ポスト初出の短編。サタデー・イブニング・ポストは、半世紀近くノーマン・ロックウェルがカバーイラストを担当した「これぞアメリカン・ライフ」という感じの保守的な中間層向けの雑誌だ。20年代になってリーダーズ・ダイジェスト、タイム、ニューヨーカーなどが創刊されたことで読者離れが始まり、30年代にはビジュアル満載のライフやルックとの競争を強いられ下火になっていった。そんな時期のサタデー・イブニング・ポストに掲載されたチャンドラーの短編探偵小説である。
1939年、チャンドラーは初長編小説『大いなる眠り』が刊行されて高い評価を得ていたものの、経済的な見返りは少なく、エージェントから大衆雑誌に短編を書くことを勧められたという。そうした経緯もあり、気乗りしない中でパパッと書き上げた短編が『待っている』だ。日本のチャンドリアンの中ではかなり評価の高い短編(トップ1かも)だが、プライドの高い著者にとっては苦々しい経験であり、通俗雑誌向けに二度と書くつもりはないと後に語っている。
39年といえば第二次世界大戦が勃発した年で世界が揺れに揺れていた時期である。同年にフランコ軍がマドリードを占領しスペイン内戦が終結している。 アル・カポネがアルカトラズ刑務所から釈放されたのも39年。『風と共に去りぬ』や『駅馬車』という映画史に燦然と輝く名作が封切られた年でもある。
しかしながら、チャンドラーの小説にはそうした世相を感じさせる時事ネタは登場しない。ナチスがポーランドに侵攻して…とか、スカーレット・オハラのような…といった話題は皆無だ。是非は置いておいて、社会性が欠如していることで80年以上も昔の短編でありながら今読んでもまったく古さを感じない。
主人公はフィリップ・マーロウではなく、小柄で青白い顔をした中年のホテル探偵だ。ホテル探偵というのは、ホテルで起きる諸問題を解決したり、スタッフの勤怠をチェックしたりする風紀担当みたいな職業かと思う。
舞台は深夜のロサンジェルスのウィンダミア・ホテル。一人の女性が刑務所から出所してくる男を待っている。ホテルの外ではギャングも同じ男を待っている。ギャングはホテル探偵トニーの実兄だ。トニーは兄を裏切り、ホテルにやってきた男に逃げるよう促すが…
巷ではいろいろな解釈があるようだが、チャンドラーにしてはプロットが明快でとても読みやすい。暗いといえば暗いトーンに包まれてはいるが、マーロウものよりムーディとも言える。出だしの数行(田口俊樹訳)を載せておくので、惹かれた方は是非ご一読を。夜の深い時間にまったりとしたジャズを流しながら読むのがお勧めです。
午前一時、夜勤のポーター、カールはウィンダミア・ホテルのメイン・ロビーに三つ置かれたテーブル・ランプの最後のひとつの明かりを消した。青い絨毯の色合いがいくらか深まり、壁が遠のき、椅子にまだ客が座ってくつろいでいるかのようなぼんやりとした影ができ、その日の記憶はロビーの隅に追いやられ、そこに居座った。クモの巣のように。
そうそう、この『探偵マーロウ』どうなんでしょうね? リアム・ニーソンって個人的にマーロウのイメージではないし、予告を見る限りでは画がチャンドラーっぽくないかな。まあ、これはこれでアリなのかもしれないが。