「公園にて」は、集団を嫌う作家が、集団の醜さや怖さについて書いた短編だ。2005年刊行の短編集「空港にて」に収められており、表題作と並びとても強い印象を残す。著者の村上龍は1952年生まれ。おそらく52、3歳の頃の作品と思われる。
語り手の「私」は団地住まいだが、団地内の公園は決まった顔ぶれに占拠されており、坐る場所まで決まっている。その輪に入っていけない「私」は、少し離れた住宅街の広い公園へ4歳の息子を連れて行き、週に5日通うようになった。その公園には、ユウジ君のママたちの俗っぽいグループと、そこに馴染めないフウタ君のママがいる。フウタ君のママには悪い噂が立っており、孤立感を深めている。「私」はフウタ君のママとは二人でよく話をするが、ユウジ君のママたちに敵視されぬよう気を付けなければと思っている。フウタ君のママはボストンの大学へ留学するために日本を出るという。噂に耐えかねて、ここから逃げ出そうとしているのか。夫にそうした公園事情を話してもまるで無関心だ。「私」は公園に入り、ユウジ君のママたちの方か、それともフウタ君のママの方か、どちらへ向かって歩いて行こうか迷っていた・・・
幼い子どもを持つ若い母親が、公園に集う母子たちの仲間入りを果たす公園デビューという言葉が一時期よくマスコミで使われたが、この作品では母親同士の微妙な関係性や揺れる心理がリアルに描かれている。
自分で考えて判断しない人間たちが群れ、強い者に媚び、和を乱さぬように注意を払い、俗な話題に終始する。このような集団への嫌悪がこの作品からはにじみ出ており、和歌山の毒入りカレー事件と重ね合わせながら描いている。
読後感は意外と悪くない。居場所を失いつつも日和らないフウタ君のママに、ある種のロマンチシズムや脱出への希望を感じるためだ。幼い子どもを持つ母親にとって、公園は全世界と呼べるほど大きなものになる時期があるのだろう。そこでの人間関係を誤れば、救いのない地獄に落ちてしまうこともあるのかもしれない。物語の最後、「私」はユウジ君のママに手招きされる。そして、素直にその輪へと入っていく。それが現実的な選択というものだ。その様子を見ていたフウタ君のママの描写で物語は締められる。脳裏に焼きつくセンスの良いエンディングの一行。そこには、時に孤独を物ともしない著者らしい潔さが溢れている。