「午後の最後の芝生」 村上春樹

「午後の最後の芝生」 村上春樹

14年か15年前にしていた芝刈りのアルバイトを題材にした短編で、一人称の回想形式で書かれている。

回想形式のメリットは何だろう?

「午後の最後の芝生」の場合、普通に現在形で書くこともできるはずだ。この短編に限った話ではなく、村上春樹作品では昔を思い出して語るスタイルが少なくないが、それはどうしてなのだろうか。

臨場感という点だけで言えば、時点を現在から過去へと移動させるメリットはあまりないように思う。例えば戦争の話を回想形式で書いた場合、回想している時点で主人公が戦死していないことがわかってしまい、戦闘シーンのスリルは半減してしまう。戦争でなくも、今まさに目の前で起きていることの方が、思い出話よりも迫力や緊張感があるはずだ。

「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている」と作中にあるように、村上春樹作品には曖昧さや不安定さを特徴としているものが多い気がする。断定や明言を避け、核心をひらりと躱す著者の表現スタイルは、細部がはっきりさせずに済む回想形式とマッチングが良いのかもれない。

屁理屈をこねていたら、なんだか頭が混乱してきた。。。

結局のところ、この短編は面白いのか?

面白かった。ムードも心地好い。テンポがゆるく、セリフが少なく、ちょっとピーター・ボグダノヴィッチの映画のような間を感じたりもした。(そうでもないか・・・) 後半、体格の良いオバさんが出てきたあたりから特に楽しめた。

例のごとく、この短編も謎がいっぱいだ。

別れた恋人からの手紙。オバさんの娘の部屋でのやりとり。「僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ」という主人公の思い。こうしたいくつもの謎を著者本人が意識的にメタファーとして書いているのか、ひらめきに任せて書いた結果なのかはわからない。それらを細かく分析しているハルキストはたくさんいるので(ちょっと感じが悪い書き方になってしまった)、謎解きがお好きな方は他のブログを当たってほしい。(出ました、得意の解題放棄!)

いや、言い訳をさせてほしい。

メタファーいっぱいでも全然OKなのだが、読書中に心に響いてこないものに私は興味が持てないのだ。頑張って読み解かないと気付けない意味やメッセージは、たとえ解読できたとしても大して胸に響かないし、心に残らない。その絶妙な文章のリズムを感じ、心に訴えてくるものをただ享受するだけで充分だと思ってしまう。ロジカルになればなるほどに、木を見て森を見ずに陥りそうな気がする。

私は「午後の最後の芝生」という短編が嫌いではない。漂う夏の匂いやスローなテンポが心地好く、読んでいて楽しかった。隠された意味があろうとなかろうと好きな短編だ。

余談だが、週末にジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を観直した。マッチョな価値観を嫌う監督らしい魅力的なロードムービーだと改めて思った。最新作の「パターソン」も去年観た映画ではベストワンだった。もう一度、映画館で観たい! 「午後の最後の芝生」と関係ないだろ?と思われるだろうが、なんだか関係がある気がするのだ。

いや、関係ないかな。。。