『パイ』 レイモンド・カーヴァー

『深刻な話』というカーヴァーの短編があるが、その元になったのがこの『パイ』。つまり、オリジナル・ヴァージョンということになる。担当編集者であったゴードン・リッシュがカーヴァー作品に大胆な改変を加えたことは有名だが、それはもう容赦なくばっさり半分くらいに縮めてしまったりする。作家先生が魂込めて描いた作品になんてことしやがるんだ!と言いたくなるが、リッシュといえば泣く子も黙るスター編集者で、駆け出しの作家が逆らえるはずもない。しかも、アルコール依存症のカーヴァーを拾い上げた大恩人でもある。カーヴァーとしても「遠慮なく手を加えてもらって構わない」と伝えているので、勝手に切り刻んだというわけではない。

『パイ』と『深刻な話』は異なる題名を与えられているが、話の展開はほぼ同じだ。リッシュが文章を削ってタイトにしたのが『深刻な話』である。ロングヴァージョンとショートヴァージョンね、と思うでしょ。ところがどっこい、そういう単純な長さの違いではなく、作品が醸し出すムードがまるで別物になっている。私は改めてこの2作品を読み直したので、トーンの違いをはっきりと感じ取ることができた。

オリジナルの『パイ』は細部の描写に温度があり、全体的にやさしい。対して『深刻な話』は鋭利で冷たく、残酷とさえ感じる。

この作品だけでなく、リッシュは多くのカーヴァー作品を改変した。別のタイトルに変えられた短編も少なくない。カーヴァーはそれらを見せられ、精神が崩壊しそうほどにショックを受けたと言われる。リッシュに対し、改変された作品群を「見事な直し」と評価しつつも、ここまでくると自分の作品ではなく誇りを持てないし、もうこの先書けなくなってしまう、と切実に訴えている。あなたには言い尽くせないほど世話になったが、僕が書いた短編は僕そのもので、こうした改変を受け入れてしまったら立ち直れなくなるだろう。編集作業に費やした分の報酬を僕が払ってもいいから、なんとか発行を中止してほしい。といった懇願の手紙まで送っている。なんとも痛々しい。

この『パイ』に関しては、大幅に削られただけでなく、ラストまで変えられてしまっている。剛腕な大物編集者は、田舎育ちの一作家の気持ちを汲むことなく、非情にも大改変ヴァージョンを世に出してしまう。痼りが残ったためか、後にカーヴァーとリッシュは決別することとなる。

なんだかリッシュがサイコパスのように思えるが、私の個人的な感想としては改変版の『深刻な話』の方に惹かれる。ナイフのような鮮やかで緊張り詰めた魅力がある。オリジナルヴァージョンは、省略が少ないため話の流れは掴みやすいが、ややメリハリを欠いた緩い印象を受ける。

リッシュはもともと小説家志望であったが、自身でゼロから作品を生み出すことは不得手だったのだろう。編集者としては超有能で、カーヴァーのような原石を見つけるとアレンジャーとしての才能を存分に発揮した。一語一語に魂を込めるタイプの作家にとっては切り刻みなど許せるはずもない。でも、多くの読者にとって、リッシュによる改変ヴァージョンが魅力的であるのも事実だと思う。

本記事では物語にまったく触れなかったので、そのあたりは『深刻な話』の記事を読んでいただけると嬉しい。

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