『ジングルベル』 安岡章太郎

半世紀以上前の短編であるのに、どうして古さをまったく感じないのだろう?なぜ、これほど新鮮なのだろう。私の場合、日本の文学で水が合うものは少ないが、いわゆる第三の新人の小説は抵抗なく読むことができる。

この『ジングルベル』も例外でなく、心地好くて続けて3回読んだ。

ちなみに第三の新人とは…

昭和20年代後半以降に文壇作家となった安岡章太郎、吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)、小島信夫(のぶお)、庄野(しょうの)潤三、小沼丹(おぬまたん)、曽野綾子(そのあやこ)、三浦朱門(しゅもん)、遠藤周作などをさしていう。第一次戦後派(平野謙、埴谷雄高(はにやゆたか)、野間宏(のまひろし)ら)、第二次戦後派(中村真一郎(しんいちろう)、福永武彦、加藤周一(しゅういち)ら)に続く作家たちで、この呼称は、山本健吉の評論「第三の新人」(『文学界』1953.1)に由来する。評論家服部達(はっとりたつ)は、彼らの共通項として、「戦争中に青春を過ごしたこと」、「私小説的伝統への復帰の流れに棹(さお)さしたこと」、「朝鮮動乱の特需による景気回復に比喩(ひゆ)的に照応すること」(「劣等生、小不具者、そして市民――第三の新人から第四の新人へ」、『文学界』1955.9)をあげ同世代的な理解を示した。

日本大百科全書(ニッポニカ)「第三の新人」の解説より

第三のビールの説明をして笑いをとろうという姑息な考えも浮かんだが、嫌な予感がしたのでやめておいた。(やめて正解)

文芸雑誌『群像』の鬼編集長として知られた大久保房男氏によると、「山本五十六みたいな大将ではなく、ダメな兵卒を書き、聖母マリアではなく娼婦を書く」のが第三の新人ということらしい。

安岡章太郎の小説を読んでいると、形式から自由というか、枠に収まっていない解放感を味わうことができる。この『ジングルベル』もどこまで計算かわからないが、思うままに筆を走らせている奔放さや柔らかさがある。別の言い方をするなら、何も考えないのだ。「この虚無感は何なのか」とか「生きる意味とは」などを立ち止まってネチネチ考えたりしない。「何故かわからないけど、自分でも不思議だが、いつの間にか僕はそうした」的に、理屈抜きで展開していくナチュラルさがある。日本の純文学にありがちな自意識過剰な感じがない。

『ジングルベル』という短編だが、タイトルを見てロマンチックな物語を期待してはいけない。街に流れるジングルベルを聴き、歩兵連隊時代の軍曹の掛け声を思い出すシーンがあるのだが、「ジングル(へいッち)、ベール(にッ)、…ジングル(へいッち)、ベール(にッ)」ってな具合でまるでムードはない。好きでもないウナギを食べた後、満員電車が止まってしまい窓からジングルベルが聴こえてきて吐き気をもよおすシーンもある。ロマンチックの欠片もない。

自分は、自らの意思で動いているのではなく、何らかの力に動かされているだけ。逆らってみたところで、何も変えられない。そんな無力感を抱えた若者の、苛立ちや徒労が伝わってくる短編だ。華やかで陽気なジングルベルと、主人公の暗い心模様とのコントラストが印象的。空回りの虚しさが読後に残る。

第三の新人といえば短編小説なので、このブログでも今後もっと取り上げていくつもりだ。

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