「一人称単数」 村上春樹

これ以上ないくらい素晴らしい短編だと思う。プロットもセリフもエンディングもすべてパーフェクトで、心から魅了された。(一度も本から目を離すことすらできなった)

私にとっては著者の最高傑作であり、短編小説の一つの到達点だと感じる。

「一人称単数」は、8つの作品が収録された新作短編集の表題作。

妻不在のとき、ほとんど袖を通していないスーツに身を包み、ネクタイを締め、宛もなく外出するという密かな楽しみを持つ男の話だ。奇想天外なファンタジーではなく、大人のリアリティがある。バーでミステリーを読んでいて、たまたま中年女性が隣に座る。甘い会話を予感させるが、唐突に強い怒りの言葉で糾弾される。人生のアンバランスさやコミカルさが、バーを舞台に上質に描かれている。

スタンリー・キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」を初めて観たとき、派手なテーマや大掛かりな設定など無いが、「2001年宇宙の旅」や「時計仕掛けのオレンジ」や「シャイニング」や「フルメタルジャケット」といった大作を凌ぐ傑作だと感じた。「一人称単数」を読んでいる途中、ふとそのことを思い出し、読み終えた後、これは「アイズ・ワイド・シャット」同様に一見して地味だが最高傑作であると確信した。

話を「一人称単数」に戻そう。

三年前、どこかしらの水辺で、一人の女性に対して犯したおぞましい行為。でも、そのことについて男は身に覚えがない。まるで記憶に無い過去を咎められ困惑するも、面と向かって対峙せず、その場を去るという選択肢を採る。これまでも、こうした柳のような“いなし”は著者の作品で扱われてきたと思う。

「一人称単数」は、やさしさと狡猾さ、繊細さと鈍感さ、シンプルな物語に溶けた大人の清濁を酔うように堪能できる一遍だ。その流れるようなスムースな文章がとにかく心地好い。ほのかなハードボイルドの匂いも魅力的。私も一応書くことを仕事にしてきたが、失礼を承知で言わせてもらうなら、村上春樹氏は円熟の境地なのだと思う。正直、少しばかりショックを受けている。あまりにパーフェクトなため、精神的にダメージを喰らってしまった。

多くの人にとっては「なかなかの佳作」という評価かもしれないが、冗談じゃない。一箇所の中弛みもなく、一点の雑味もない最高傑作だと思う。

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