原題はGet a Seeing-Eyed Dog。1957年に発表された短編だ。ヘミングウェイは61年に61歳で他界しているので晩年の作品と呼べるだろう。
未読の方のために一応書いておくが、盲導犬は比喩であり、犬は一匹も話の中に出てこない。夫婦の会話が中心の作品で、「キリマンジャロの雪」と少し似ている。似てはいるのだが、この2作品は書かれた時期が異なるため妻が違う。「キリマンジャロの雪」は2番目のポーリーンで、「盲導犬としてしてではなく」は4番目のメアリ。年齢的なこともあってか、ポーリーンに比べてメアリは穏やかで落ち着いた女性という印象を受ける。作品自体のトーンも、「キリマンジャロの雪」は言葉がキツくて親しみやすさに欠けており、30代半ばの威勢の良さがあるとも言えるが、それ以上に浅はかさを感じてしまう。「盲導犬としてではなく」の方は、角が取れて思慮深い。知名度で言えば、映画化もされている「キリマンジャロの雪」が上だが、作品の質としては「盲導犬としてしてではなく」が優れている(と思う)。個人的には、断然こちらが好きだ。
「盲導犬としてではなく」では、視力を失った男と彼に付き添う妻が描かれている。献身的な妻の看病に対し、気遣いを見せる夫の話だ。この短編が世に出る3年程前、実際にヘミングウェイは飛行機事故で左目の視力を失い、イタリアのヴェネツィア(「アドリア海の真珠」と呼ばれる夢のように美しい水の都)で療養生活を送っている。その時のことを題材にして書いたのがこの短編だ。
ヘミングウェイらしいシニカルな話しぶりと、女性を母親と見ているような甘えた感じはあるものの、若い頃とは違う柔和なムードが漂っている。衰えとまでは言わないが、人生の秋を感じさせる。
これは私だけかもしれないが、自分を犠牲にして尽くすメアリの姿の中に、最初の妻ハドリーが透けて見える気がした。ヘミングウェイの人生にとって最も重要な人物、それはハドリーではないだろうか。人生の秋を迎え、心に虚無を抱える満身創痍の男が、遠い昔に別れた元妻ハドリーの大らかな母性に思いを馳せている。そんな気がしてならない。人並外れてデリケートで弱虫なヘミングウェイは、時代の波の中で地に足をつけることができず、最後まで不器用な生き方しかできなかった。そう思うと、なんだか少し切ない。
蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす―ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)