クライムノヴェルのような物騒なタイトルが付けられた有名な短編だ。タルコフスキーも映画化している。
原題は、二人組の殺し屋なので複数形のThe Killers。1926年5月、マドリードの小さなホテルで書き上げたとヘミングウェイ自身が語っている。Wikipediaによると「ジョージ・プリンプトン(英語版)とのインタビューで、ヘミングウェイはこの小説を一晩で書き上げたことを語っている」とあるが、実際のところはなかなか完成できずにいた作品であり、マドリードのホテルで一気に仕上げたということらしい。ヘミングウェイには珍しい宗教的なモチーフ(イエス・キリストの処刑)の短編「今日は金曜日」、恋に傷つく少年を描いた「十人のインディアン」の2作品もなんと同じ日に完成させている。取り憑かれたように書きまくったようで、本人も「気が変になると思った」とその日を振り返っている。
「殺し屋」のプロットは・・・
食堂に二人組の男が入ってくる。 粗暴な振る舞いの二人は、食事の後で主人公のニックとコックを縛り上げる。毎晩この店へ食事にやってくるスウェーデン人ボクサーのオーリを殺すためにやって来たと話す。結局その日、オーリは現れず、殺し屋たちは引き上げた。 ニックは、事態を伝えるためオーリの下宿へ向かう。しかし、殺し屋のことを伝えても彼はベッドに横になったままで、もう逃げ回るのにはウンザリだと壁を見ながら言うだけだ。ドジを踏んでしまったから見逃しもらうのは無理だ、と。殺されるのをただ待っているだけのオーレ。ニックはとてもやりきれない気持ちに襲われる。
この短編を面白いかと訊かれたら、個人的にはそれほど魅力を感じない。悪くはないのだが、著者の良さがあまり出ていないような、なんというかヘミングウェイが扱う題材ではないという違和感を覚えた。初稿では、殺し屋が立ち去る場面で話が終わっていたらしいが、まだその方が構成的にシンプルで想像も広がっただろう。ニックがオーリの下宿を訪ねるシーンには、やや取ってつけたような印象を受けてしまう。どうしてそのシーンが付け加えられたかについては、訳者の高見浩氏の解説が助けになる。執筆時、ヘミングウェイは最初の妻ハドリーと愛人ポーリーンの間で身も心も引き裂かれそうになっていた。「殺し屋」などいう厳ついタイトルで、しかも「男だけの世界」という短編集に収められてはいるものの、この作品は逃げ場のない追い詰められた著者の気持ちが反映された一種の恋愛小説と言える。前述した、同じ日に書き上げたという「今日は金曜日」と「十人のインディアン」も、男女問題の袋小路で苦しむ心境が反映されている。殺し屋に追われている大男は、タフさを売りにしてきたボクサーだ。それが今は、二人の殺し屋に追われ、すっかり気力が萎え、ひとり閉じこもってしまっている。女性問題から逃げるようにマドリードへ一人旅に出たヘミングェイそのものではないか。二人の殺し屋がハドリーとポーリーンという解釈はちょっと行き過ぎかもしれないが(そこまでくるとブライアン・エヴンソンの短編みたいだ)、オーリと自分の置かれた立場を重ねていたという解釈には説得力がある。
ヘミングウェイは細部まで計算し先を見通した上で書く作家ではないと思う。直感に従って書き、それに何度も執拗に手を入れ、磨き上げていくタイプだと思う。この「殺し屋」という短編は途中まで書いてなかなか仕上げることができなかったというが、はじめからヘミングウェイ自身の中でひらめくものがそれほど無かったのかもしれない。そのせいで、失速してしまったのではないだろうか。世間では評判の良い作品かもしれないが、個人的にはそんなことを思ったりした。
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)