「テディ」 J.D.サリンジャー

「テディ」 J.D.サリンジャー

はじめにお伝えしておくが、今回はいつにも増してまとまりのない記事になるので含みおきいただきたい。(言い訳から入ると気が楽になる)

取り上げる短編はサリンジャーの「テディ」。今更言うのも気恥ずかしいが、とても魅力的な短編だ。書いてくれたことを感謝したくなるほど素晴らしい。もし短編小説の競売があったとしたなら、何億円もの値がつくこと間違いない名篇だろう。(例えがいまひとつだな)

でも、やはりサリンジャーは別格だ。何が凄いって、とにかく読んでいて気持ち良い。そこ?と思うかもしれないが、センスの良い作家による精緻な描写はただ触れているだけで多幸感を得られる。その力は翻訳でも消えることがない。こんな芸当のできる作家は、サリンジャーとカポーティくらいしか思い浮かばない。

内向的で神経質なイメージのあるサリンジャーだが、「テディ」の舞台には透明感があり、眩しいくらいに明るい。この作品だけでなく、陽光たちが踊り、清涼な風の流れる明媚な舞台の作品は意外と著者には多い。内容の暗さを反転させたかのような濁りのない鮮やかな画は、そのコントラストもあって強い印象を残す。意図的にかはわからないが、ヘミングウェイもこうした明暗で魅せる作品が多い。

「テディ」(原題:Teddy)はザ・ニューヨーカー誌の1953年1月号に発表された短編で、輪廻(生と死の繰り返し)という神秘的な題材を扱っている。サリンジャーは1919年生まれなので、30代半ばの作品ということになる。作品に手を加えない、といういかにもな理由からザ・ニューヨーカーと契約したらしい。著者の宗教的な背景や神秘主義への傾倒は、それだけで一冊の本になるほど深い話なので、ここでは一切触れない。(逃げたとか言わないように。むしろ、知らないことを語らない誠実さをほめてほしいw)

あらすじもここでは紹介しない。未読の人は予備知識をまったく持たない方がより楽しめるだろうし、既読の人には不要だと思うので。記事を書く際、あらすじを載せるかいつも迷うのだが、サリンジャー作品の時は何も書かない方が良い気がする。

私はサリンジャーについて詳しい方ではないが、一般的なイメージと違って根は明るい人だったのではないだろうか。先ほども書いたが作品の舞台には開放感があり、読んでいて内向きの暗い人には思えない。高い塀に囲まれた家に引き籠り、だれとも会わない世捨て人のような暮らしをしていたと言われるが、別の名前で町に溶け込み暮らしていたという話も聞いたことがある。偏屈で頑固だが、実は人が好きだったのではないだろうか。

「テディ」に話を戻そう。世の中にはこの作品の謎解きが溢れている。すべての描写やセリフが研究対象だ。意味のない作業とは思わないが、私はそこに関心が向かない。サリンジャー作品はあまり分解しない方が美味しさを堪能できると思っているからだ。ハーゲンダッツを食べた時に美味しいと思っても、成分や製法を細かく調べたりしないでしょ。それと同じで・・・。(またしても、下手な例え話でわかりにくくなった)

お前、ヘミングウェイの短編は割と細かく分析していたりするだろ、と突っ込まれそうだが、ヘミングウェイとサリンジャーは違うのでござる。これは私見なので気を悪くせずに聞いてほしいのだが、サリンジャー作品の弱点はストーリーではないだろうか。舞台設定も人物の造形も文体もクオリティが恐ろしく高いが、ストーリーだけが思考の産物に思える。左脳で作ったような感じというか。「テディ」に関しても捻りすぎ、凝りすぎと感じるし、ラストシーンはこの作品の魅力を半減させていると私は思う。思考でオチをつけてしまうとリアリティが薄まり、それまで中心にあったものが霧散してしまうような気がするのだ。

繰り返すが、これはあくまで私の個人的な感想なので、馬鹿げた意見と腹を立てる人がいるのは承知している。もちろん、ストーリーが弱点とは言っても、強いて挙げればという話で、普通に読めば充分過ぎるほど面白いのは間違いない。

(サリンジャーファンからのブーイングが聴こえるようだ)

なんだかんだ言っても「テディ」はawesomeなので、未読の人はぜひご一読を!(うわっ、こんな雑な締め方が許されるのだろうか!?)

自慢することではないが、サリンジャー作品の解読が上手くできたことはこれまで一度もない。今回もご愛嬌ということでお許しいただきたい。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)