タイパ文芸について

短編小説の解題を長くやってきたブロガーとして(ブロガーってなんか恥ずかしい)、「タイパ文芸」を取り上げないわけにはいかない。でも、別に取り上げなくてもいいか。いやっ、一応取り上げよう。

ということで、『すべての恋が終わるとしても』を読んでみた。

「タイパ文芸」ってなんじゃい?という人も多いかと思う。タイパはあのタイパで、「タイムパフォーマンス」の略。要は、時間に対して得られる効果のこと。スマホが普及し、いつでもどこででも大量に、エンドレスに情報が押し寄せてくるので、一つ一つにじっくり接している暇などない。短かく編集された動画でさえ倍速視聴する。「ながら見」もタイパ重視の表れだ。マクドナルドでも吉野家でも、ほぼ全員がスマホを見ながら食べている。一部の男たちはスマホ片手にトイレで用を足す。一瞬も画面から目を離したくないから、手も洗わずにそのまま出ていく。他人にどう見られようと知ったこっちゃない。欲求を効率的に満たすことが最優先なのだ。

なんかタイパ批判みたいになってしまったが、「タイパ文芸」というのは、こうした時短重視の時代にフィットした「あっという間に読める超短かい小説」のことだ。

『すべての恋が終わるとしても』(著:冬野夜空/スターツ出版)は、140文字程度の超短編だけで構成されている。シリーズ累計50万部超えで、「30秒で泣ける!」という売り文句で「タイパ文芸」への注目を高めた短編集だ。TikTokやYouTubeショートの感覚で読書できることから、女子中高生に見事に刺さった。(よっ、マーケティング上手!)

読んでみての率直な感想としては、小説より詩に近い印象を受けた。文字数に限りがあり、ディテールの書き込みや捻りを加えられないため、ストレートで叙情的な話が多いと感じた。誤解を恐れずに言えば、個人的には何ひとつ響くものがなかった。それは当然のことで、読書デビューの女子中高生向けに書かれた物語で、私のようなラギッド大好き中年男に響くはずもない。(逆に響いたら気持ち悪い) そもそも、移動中にmotorheadを聴いているような中年男が手に取ってはいけない小説なのだ。胸キュン恋愛話を非難するつもりはまったくない、読者層を考えたらこれで正解なのだろう。

ちなみにmotorheadはこういう憎めないオジさんたち

「タイパ文芸」は、小説のスタイルとしてアリだろうか?

そもそも表現は自由なのだから、アリもナシもないのだが、個人的には140字はあまりに短か過ぎると感じる。読み手の心を動かすには500〜1000字は欲しい。読書習慣のない若年層が本を手に取るきっかけ、そういう意味ではタイパ文芸には充分に価値があるとは思うが。

余談になるが、タイパのデメリットとして「思慮が浅くなる」という意見をよく耳にする。「効率や結果ばかり求めて、深い理解や創造性が育たない」と多くの識者が訴えている。ChatGPTも、タイパの弊害として「深く考察できなくなる」と言っている。

本当にそうだろうか?

タイパで思慮が浅くなるのはその通りかもしれないが、長編小説を読んでも思慮深くはならないと思う。(私個人の意見ね) 理由は、インプットで人は変わらないから。読書は受け身のインプット作業なので、読後に大した効果は期待できない。言い換えれば、アウトプットしないと人は成長できない。このブログを始めて数年経つが、読んでいるだけの時は、ヘミングウェイのこともカーヴァーのこともよくわかっていなかった。記事を書くようになり、低レベルかもしれないが見えてきたことは少なくない。自分自身のものの捉え方や価値観もはっきりしてきた。

発信するためには、自分なりに対象を理解し、自分なりに見解を持つことが前提として必要になる。タイパのメリット・デメリット以上に、アウトプットの有無の方が私には大事に思える。

タイパの話が、いつの間にかアウトプットの話に移ってしまったが、まあ言いたいことは言えた気がする。皆さんにも、思ったことは口に出して話してみたり、ノートに書いてみることをおすすめする。(エラそーにすみません)

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