「清潔で、とても明るいところ」は、1933年にスクリプナーズ・マガジンに発表されたアーネスト・ヘミングウェイの短編で、「勝者に報酬はない」(原題「Winner Take Nothing」)に収載されたマスターピースだ。執筆時期はおそらく1926年頃。(英語版Wikipediaなどを調べたが詳細な情報は見つけられず、あくまで推測)徹底的に推敲を重ねるタイプの作家なので、一つの短編の完成までに数年を費やしている可能性もあるだろう。
この短編は掌編と呼べるごく短いものだが、至福の読書体験を私にくれた、個人的に特別な作品だ。原題は「A Clean, Well-Lighted Place」。高見浩氏による邦題は原題に忠実で、シンプルな中にも透明感が漂っている。他にも多くの方が翻訳しており、
「清潔な、明かりのちょうどいい場所」
「清潔な、明かりの心地よい場所」「清潔な照明の好いところ」「清潔で明るい所」などさまざまな邦題が存在する。
ヘミングウェイは住処や伴侶を何度も替えた人なので、「清潔で、とても明るいところ」が書かれた背景に少しだけ触れておこう。彼は1999年生まれで、この短編が世に出たのは30代前半である。「われらの時代に」「男だけの世界」「日はまた昇る」の成功でスター作家の仲間入りを果たし、上昇気流に乗っていた時期の作品と言える。私生活では最初の妻ハドリーと別れてポーリーンと再婚。周囲の人物たちをモデルにした「日はまた昇る」が大反感を買い、居心地の悪くなったパリとも決別している。(怒り狂う人もいて、命の危険もあったようだ) そうした同時代の作家達との緊張関係から解かれるべく風光明媚なフロリダ半島南西の島に創作の拠点を移し、幾多もの名作を産み出していく。実り多き12年間のキーウェスト時代である。
現在、ヘミングウェイの屋敷は博物館として一般公開され、彼が飼っていた6本指の猫たちの子孫も人気者になっている。多指症の猫は幸運を呼ぶと信じられており、「ヘミングウェイ・キャット」とも呼ばれているそうだ。
人気作家としての名声を手にし、キーウェストの煌めく陽光とカリブの風を受けながら、なぜヘミングウェイは甘美な陶酔ともマッチョな流儀とも程遠い、虚無に包まれた遠いスペインの夜を描こうとしたのか。
脳裏に焼きつく戦場の残像。父クラレンスの拳銃自殺。大不況下のアメリカ社会からの容赦ないバッシング。苦楽を共にした前妻ハドリーへの悔恨。そうした拭えない憂鬱が、洋上での爽快なフィッシングや心地好いバーでの悦楽の時間とのコントラストを作り出し、創作に影を落としていたのかもしれない。この時期の短編には重く暗いものがとても多い。
渦中では書けなかったことも、物理的な距離を置いたことより、冷徹な作家の目で捉え直すことができたこともあるだろう。
勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)
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「清潔で、とても明るいところ」(続き) アーネスト・ヘミングウェイ