村上春樹氏がレイモンド・チャンドラーの7つの長編を訳し終えた後、その記念として出版されたフィリップ・マーロウ名言集である。選者は元クノップフ社の編集者マーティン・アッシャー氏で、村上春樹氏が「高い窓」と「プレイバック」からの引用句をそこに加えている。
私はチャンドラーに浸って育ったため、ホームに帰ったような懐かしい思いが湧きあがってきた。理解は得られないかもしれないが、チャンドラーの小説を読むといつも心が正しい状態にリセットされる。劣化した感情が治癒していく感覚を得ることができる。
個人的に気に入ったものをいくつか紹介しようと思う。
車は縁石から離れ、角を曲がっていったが、財布の中で紙幣がこすれるほどの音しか立てなかった。『トラブル・イズ・マイ・ビジネス』
時計の針さえ止めてしまいそうなご面相だったというのは彼女に対する侮辱になるだろう。それは暴走する馬だって止められただろうから。『リトル・シスター』
私はチェス盤を見下ろした。ナイトを動かしたのは間違いだった。私はその駒を元の位置に戻した。このゲームではナイトは何の意味も持たない。そこに騎士(ナイト)の出番はないのだ。『大いなる眠り』
放蕩は男を老けさせるが、女を若く保たせると人は言う。人はいろんなつまらないことを言う。『ロング・グッドバイ』
私はブラックでコーヒーを二杯飲んだ。煙草も試してみた。まともな味がした。とりあえず人間として機能しているらしい。『ロング・グッドバイ』
テリー・レノックスは私にさんざん面倒をかけてくれた。しかし考えてみれば、面倒を引き受けるのが私の飯のたねではないか。『ロング・グッドバイ』
夜だった。窓の外に見える世界は真っ暗だ。『さよなら、愛しい人』
「あなたは自分のことを知恵の働く人間だと思っているのかしら、ミスター・マーロウ?」
「まあ、あふれてこぼれ落ちるほどでもありませんが」と私は言った。『高い窓』
その家が視界から消えていくのを見ながら、私は不思議な気持ちを抱くようになった。どう言えばいいのだろう。詩をひとつ書き上げ、とても出来の良い詩だったのだが、それをなくしてしまい、思い出そうとしてもまるで思い出せないときのような気持ちだった。『高い窓』
「私に何をしてもらいたいのですか、ミスター・キングズリー?」
「何が知りたいのだ?そもそもきみは探偵の仕事ならなんだってやっているんだろう。違うのか?」
「なんだってというわけではありません。いちおう筋の通ったことだけをやっています」『水底の女』