「レキシントンの幽霊」 村上春樹

この短編が「群像」に発表されたのは1996年なので、初出から20年以上経っていることになる。「群像」に掲載されたのはショートヴァージョンだが、この記事では倍くらいの量に加筆されたロングヴァージョンの感想を書いている。(ロングヴァージョンが先に書かれたという噂もある) どこが違うのかよくわかっていないのだが。。。
 
主人公の「僕」が住んでいるのは、マサチューセッツ州のケンブリッジ。紛らわしいがイギリスのケンブリッジではない。マサチューセッツ州のケンブリッジにはケンブリッジ大学はない。あるのはハーバード大学だ。それと早口言葉としてお馴染みのマサチューセッツ工科大学もある。大抵は「マサチューセッチュ」と赤ちゃん言葉になってしまい笑いが起こる。(だれも笑わないか) なんだか、どうでもいいことばかり書いている。
 
ケンブリッジに住む「僕」は小説家で、ケイシーという建築士から編集部宛に「会いたい!」とファンレターが送られてきた。彼のジャズレコードのコレクションに惹かれ、実際に会うことにする。二人は親しくなり、「僕」は1週間ほどケイシーの家の留守番を頼まれる。留守番初日の夜のこと、誰もいないはずの1階からなにやら音が聞えてくる。恐る恐る階段を下りていくと…
 
というミステリアスな物語だ。
 
とても口当たりが良く読みやすいのだが、例のごとく暗示に溢れ、ほとんど説明はない。謎解きの欲求を喚起するタイプの、著者らしい短編だと思う。
「ある種のものごとは別のかたちをとるんだ。それは別の形をとらずにはいられないんだ」といった観念的な言葉が頭に残り、読者はもやもやと考えさせられる。
これは「親しい人の死」を扱った短編という気がする。この世を去った人の思いは、幽霊という別のカタチとなって現れる。一方、残った人(大切な誰かを失った人)の心は虚無に支配され、生きながらしばらく死ぬことになる。その死を「眠り」というメタファーで表現したのかな、と思ったりした。正解があるわけではないので、まったく異なる解釈をする方もいるだろう。
 
でも、村上春樹氏はどうして直接的に書かず、それとなく匂わすような書き方をするのだろう。心理的には、明示より暗示の方が与える印象は強いものになる。メッセージをダイレクトに伝えるのではなく、読み手の想像力に委ねた方が結果的には深く心に刻まれる。著者の中にそういった計算があるのかもしれないし、ただ物語の魅力を醸成するために謎めかせているだけかもしれない。
 
謎解きは面倒だが、怠けずに脳を回転させてみると、ちょっとした充足感を得られて楽しくなってくる。「レキシントンの幽霊」は、そう感じさせてくれる短編だった。
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