移動中の電車で、全米オープンを3度制したインターナショナル・マスターと著名なチェス作家が書いた「チェス上達の手引き」( I.A.ホロヴィッツ/フレッド・ラインフェルド)を読んだ。モダン・ディフェンス(黒番のオープニング定跡の名前)の章の数ページだけだが、それでもかなり集中したため、げっそりするほど消耗した。
Rf6 cxd4 Qg3 といった記号とにらめっこしながら駒の配置を想像していると、とにかく脳に負荷がかかる。苦行レベルと言ってもいい。電車の乗り換えなどで一旦途切れてしまうと、手前まで戻って読み返すことになり思わずため息が漏れる。
将棋を指す方ならわかると思うが、棋譜から盤面をイメージするのは容易な作業ではない。遅遅として進まないし、思った以上のハードワークだ。
Youtubeの解説動画の方がはるかに効率的に学べるが、残念ながら日本ではまだチェスが普及していないため、アップされている動画は限られている。他人と同じ手を指したくない、私のような変わり者のニーズに応えてくれるコンテンツは今のところ少ない。
仕方なく海外の動画を見るのだが、専門用語が多い上に早口で理解が追いつかない。結果的に書籍に頼ることになる。まあ、翻訳された書籍も驚くほど少ないのだが。息抜きのプレーヤーならいいが、本気でチェスに取り組む人にとって英語力は不可欠だろう。
教本を読むのはシンドイと書いたが、書籍ならではの魅力もある。「チェス上達の手引き」は単なる戦略や戦術の解説本ではなく、素人対局の間違った手に学ぶという初心者目線で書かれているユニークな本だ。マスター同士の名局の場合、そこに凄みや美しさを感じられたとしても、実際の対局にはあまり活かせない。ビギナーにはレベルが高過ぎるのだ。
「チェス上達の手引き」をバッグに入れておけば、ちょっとした空き時間に、リアリティ溢れる対局を自分のペースで読み進めていける。それに加え、小説を彷彿させるドラマチックな状況描写がハードボイルド調で楽しい。
例えば…
「ここで突然、白の巧妙な戦術を見落とした黒が愕然となる」
「過酷な試練に直面している。痛烈に咎めるためには、論理のみならず、美学も必要だ」
「黒は最善の反撃を仕掛けた、状況がどれほど変わったか注目しよう」
「このサクリファイスは野蛮で意外性に富んでいる。困惑のあまり何が起こっているのかわからぬまま、敗北へと向かっていく」
「自軍に見捨てられた哀れな黒キング」
「あの時にe5としていたら、この危機は絶対に避けられた」
といった感じの臨場感あふれる実況で盛り上げてくれる。下手な小説より味わい深い。じっくり時間をかけて何度も読み返すタイプの本で、上達への即効性は期待できないかもしれないが読む前よりチェスを好きになれる。
マインクラフトのような不思議な表紙デザインもどこか魅力的だ。