このブログは短編に特化しているので(一応は)、これまで取り上げてこなかった作家がいる。遠藤周作もその一人だ。「沈黙」を読んだ時のメガトン級の衝撃(表現が古い?)は何年も消えずに胸に残っている。これほどインパクトの強い読書体験はそうあるものではない。「女の一生」も良かった。ただただ涙が止まらなかった。「浦上四番崩れ」と呼ばれる長崎市で江戸末期から明治初期に起きたカトリック信徒への弾圧は、私の中で最も関心の高い日本史上の事件となったほどだ。
で、「イエスの生涯」。こちらは小説ではなく、著者が自らの感性で人間イエス・キリストの実態に迫ろうとした遠藤周作版イエス伝といえる。神学の知識など持たぬ無神論者でもスラスラ読めるほど易しく書かれており、これまでに繰り返し手にとってきた。
イエスを「無力なる人」として描き、賛否両論を巻き起こした問題作(一部のキリスト教信者から大ひんしゅくを買った)だが、続編と呼べる「キリストの誕生」の冒頭で「この考えは今日も変わっておらぬ」と言い切っているように、芯の通ったぶれない遠藤節を堪能できる一篇だ。
私は洗礼を受けたクリスチャンではないし、そもそも宗教への信心がない。それでも文庫本を開けば、巧みな言葉のタイムマシンに乗せられ、2千年前のイスラエルへ旅に出ることになる。そして、心が震えるほどの体験をする。
ただ・・・、遠藤作品を読む時、いつもどこかで心の準備を必要とする自分がいる。読書前に遠藤周作チャンネルに切り替えるような感じだ。エッセイなら気軽に楽しめるのだが、小説についてはベーシックなところで違和感を覚えているのかもしれない。幼い頃からキリスト教が生活の中に有った人間と無かった人間、その差だろうか。手を伸ばせば触れることができるほど近くにいるのにガラスで隔てられている、そういう感覚に近い。
頻繁ではないが、私は移動の途中でカトリック教会へ寄ることがある。考えを整理して、視界をクリアにしたい時などが多い。四谷のイグナチオ教会や文京区のカテドラル教会で過ごす静かな時間。厳かな気分に浸っているだけかもしれないが、清涼感があり、とても居心地好い。その時、遠藤作品に感じていたガラスの壁は消えている。でも教会を出てしばらくするとまたその壁は現れる。
「イエスの生涯」は、人生を通してイエス・キリストについて思いつづけてきた一人の作家が、有り余る熱量と想像力をもってその実像に近づこうとしたエキサイティングな取り組みであったと思う。豪胆さと柔らかさ、緻密さと奔放さを併せ持った遠藤周作は私にとって最も重要な日本人作家であり、本作は数多い著作の中でも特別な一冊といえる。今もガラスの壁は消えていないが、私はそのガラスが何を意味しているのかについて四六時中考え、ガラスの向こう側の世界を想像しつづけている。これからも「イエスの生涯」を再読し、納得いくまでじくじくと考えることになると思う。