「乗り継ぎのための三時間」 スコット・フィッツジェラルド

「乗り継ぎのための三時間」 スコット・フィッツジェラルド

「乗り継ぎのための三時間」は、エスクワイア誌1941年7月号が初出の短編で、フィッツジェラルドは40年12月に死去しているので、晩年に書かれた作品と思われる。「失われた三時間」というタイトルで村上春樹版が出ているが、軽く読み比べた印象としては野崎孝版とややテイストは異なるようだ。原題はThree Hours Between Planesで、「失われた」という形容詞は村上春樹が意図してタイトルにした言葉で、野崎訳は原題に近い。今回は、先に読んだという理由で野崎版をベースに書こうと思う。

夏の夜、アメリカ中西部の空港で、ドナルドは20年前に想いを寄せていた女性に会ってみようと決意する。最後に会ったのは12歳の時で、結婚して家庭を持っているのか、生きているのかさえ何一つわからない。空港の電話帳で調べた番号に勇気を出してかけてみると、女性はドナルドを覚えており、突然の電話を歓迎してくれた。しかも、会いたいので家まで来て欲しいと言う。実際に訪ねてみると、記憶の中の少女は美しい大人の女性に変わっていた。甘い再会に酔い、古い一枚の写真を見つめる二人。しかし、その写真からある事実が判明し、ロマンチックなムードはどこかへ消え去ってしまう。。。

ネタバレになるので書けるのはここまでだが、軽妙洒脱な短編かと思いきや、しみじみとした悲哀漂う気の毒な結末が待っている。楽しいことはいつだって儚く終わるもの、そのあたりも辛酸を嘗めてきたフィッツジェラルドらしい展開だ。
物語のラストで、ドナルドは「飛行機の乗り継ぎの三時間で多くのものを失ってしまった」と振り返る。続けて、「でも、人生の後半戦は喪失の過程なのだからどうという程のものでもない」と考える。諦め慣れているというか、不幸慣れしているというか、フィッツジェラルド作品はなんとも可笑しくて切ない。数多くの短編を書き残し、ハズレも多いなどと言われたりもするフィッツジェラルドだが、本作は純粋に読書の愉しさを味わうことのできる魅力的な小品だ。

フィツジェラルド短編集 (新潮文庫)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)