「ある新聞読者の手紙」 アーネスト・ヘミングウェイ

なんだかチェーホフの短編のようだ。

「ある新聞読者の手紙」は、短編集「勝者に報酬はない」(原題:Winner Take Nothing)に収録された作品で、原題はOne Reader Writes。文庫で3ページに満たない掌編だ。

米軍兵士の妻が書いた悩み相談の手紙が話の中心に据えられている。上海で梅毒をうつされて帰国し、治療を受けている夫とどう向き合えばよいのかというのが彼女の悩み。話の冒頭で、「折りたたんだ新聞を目の前に広げ」という描写があるため、原題のOne Readerが新聞の読者であることがわかる。誰にも相談できない類の悩みであり、新聞の人生相談欄へ手紙を送ろうと決断したのである。

手紙の文末には「1933年2月6日 ヴァージニア州ロアノウク」と記されている。

ロアノウクは、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道や蒸気機関車製造で鉄道ファンにはよく知られる町。時代背景としては、1929~33年は世界大恐慌の時代であり、33年にルーズベルトが大統領に就任し、政府が経済に介入するというニューディール政策を打ち出している。失業者も多く、重苦しい空気に包まれた時代だったと思われる。しかし、ヘミングウェイ作品にはそうした社会性はほとんど描かれない。「ある新聞読者の手紙」も然り。政治や経済は彼にとって関心の対象ではなく、自分向きの題材ではないと考えていたからだろう。(精通していないことは書きたくなかったようだ)

夫が患っている病気は梅毒である。梅毒が完治するようになったのは1940年代以降であるから、当時はまだ不治の病。鼻が落ちて死ぬ、と恐れられた性病だ。1920~30年代の上海には西洋の流行文化がどっと入り込んで来たようで、異様なまでのエネルギーに充ち満ちたカオスという感じだったと思われる。

で、この短編は何を描いているのか?宗教がテーマという人もいるようだが、この女性は教会で聖職者に相談せず、新聞のお悩み相談に手紙を書いている。宗教を匂わせる描写も特に見当たらない。戦争もテーマではないだろう。この時期は戦時中でなく、兵役についての説明などもない。私には、この女性の天然さ(純朴さ)が主題に思えた。「どうしてあんな病気にかかってしまったのかしら」と無知を強調する表現が多用されており、世間知らずでどこか呑気な感じがする。

ヘミングウェイは、この妻を好意的には描いていない。かと言って悪意を持っている感じでもない。チェーホフ作品のように、「世の中にはこういう人もいるのさ、おかしいよね」とユーモラスに描いているという印象を受けた。

最後に、江戸時代に流行した梅毒についての川柳を一つ。

親の目を  盗んだ息子  鼻が落ち

怖いなぁ。これも、ちょっとチェーホフっぽいかな。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

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