「偶然の旅人」 村上春樹

作中に出てくるルービンシュタインのショパンを聴きながら、この短編を読んだ。元々が洒落た物語なのだが、憂いある美しい音楽との相乗効果で、かなりロマンチックな読書になった。

「偶然の旅人」は再読で覚えている部分も多かったが、これほどの傑作とは気づいていなかった。読書の魅力も改めて感じた。

この短編は構成がユニークで、エッセイのように著者の一人称ではじまり、途中で三人称に変わり、後半で会話形式となり、最後にまた一人称に戻る。視点が変わっても、読者に負担を掛けるような難解さはない。村上春樹作品の特徴である淀みないスムースな文章で、スッと自然に頭の中にイメージが醸成される。このコンフォートさは、もっと評価されて良い気がする。

41歳のゲイのピアノ調律師が、神奈川のショッピングモールで見知らぬ女性に声を掛けられる。偶然にも、二人は全く同じカフェで全く同じ本チャールズ・ディケンズの「荒涼館」を読んでいた。その出会いの後、仲違いをして何年も疎遠になっている実姉に電話をしてみようと思い立つ。そして、またしても偶然が。。。

謎解きをはじめたらネタは尽きないが、ファーストインプレッションを大切にしたい。謎解きは趣味ではないし、思考で見つけ出した意味というのは、大抵はインパクトが弱くて心に響いてこない。読書中、あるいは読後にグッとくるものがあるかが重要ではないかと思う。

そういう意味で、「偶然の旅人」は良かった。何よりストーリーが面白く、一気に読ませる魅力がある。強い念が偶然を引き起こす的なユングのシンクロニシティを思い出したが、見えざる力の有無は別として、ロマンチックな偶然の連続で酔わせてくれる。

たまたまショッピングモールのカフェで二人が読んでいたチャールズ・ディケンズの「荒涼館」については、私は未読なので何も語れない。重要な隠喩として使われているのかについてもわからない。社会性のある超大作なので、この短編に奥行きや落ち着きを与えている気はする。

フィクションとノンフィクションの境界線を行き来するような書き方は、著者の得意とするところと思うが、楽しそうに乗って執筆している様子がなんとなく目に浮かぶ。私の想像に過ぎないが、産みの苦しみにもがきながら書いたとは思えない。こういう生き生きとした文章を読むと、こちらの書く意欲まで高まってくる。「偶然の旅人」は、著者の魅力に溢れた情緒的で感傷的で優しい短編だと思う。

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