「モールバンヒルズ」 カズオ・イシグロ

「モールバンヒルズ」 カズオ・イシグロ

安物のアコースティックギターひとつ抱え、いくつものオーディションを受けるが結果の出ない若いギタリスト。腐り切ったことがまかり通っているロンドンの音楽業界に嫌気がさしてきて、モールバンヒルズ(ハイカーに人気のイギリスの丘陵地帯)のカフェを営む姉夫婦の元でしばらく過ごすことに決める。夏の繁忙期で賑わうカフェを手伝うなか、スイス人のミュージシャン夫婦と知り合いになる。はじめは仲睦まじい夫婦に見えたのだが、話をしているうちに二人の間にギクシャクしたものを感じ取る。疎遠になってしまった息子のこと、旅先で出会った風景や料理、何に対しても二人の受けとめ方はまるで違っているのだ。生きていると落胆することが多い、昔と違ってこの頃は怒ってばかりとネガティブになりがちな妻に対し、夫は一貫してポジティブでへこたれることがない。素晴らしい出会い、素晴らしい風景、素晴らしい毎日といった調子だ。性格の不一致を抱えつつ、二人は長い旅を続けてきた。物語は、二人が擦れ違ったまま静かに幕を閉じる。

モーバンヒルズは、バーミンガムからクルマで1時間くらいの距離にあり、Hillsといっても丘というより低めの山といった地形らしい。その土地の名をタイトルにした短編「モールバンヒルズ」(原題:Malvern Hills)には、スイス人のミュージシャン夫婦だけでなく、民宿を経営する元教師の老婆、実の姉、姉の夫といった登場人物たちも割と意味あり気に描かれている。ただ、個人的な感想としては、現実をありのままに捉えるストレスフルな妻とすべてに楽観的な態度を示す明るい夫、この二人を中心に据えた物語に思えた。最後のシーンで、夫は隣の丘を登る遠くの人物として描かれており、逆に妻は同じベンチに腰掛けて主人公の若者と深い会話を交わす。その場面から読み取れるのは、若者は妻と同じ側に属するタイプの人間で、加えて言うなら作者のカズオ・イシグロも妻側に属していることをシンボリックに表している気がする。

その妻は去り際に、「あなたに幸運を祈りますよ」と言って小道を下って視界から消える。うらがなしい場面ではあるが、その出会いは若者にとって人生の糧になることを予感させ、一筋の光が感じられる。

勝手に決めてはいけないと思うが、このブログを読んでくださっている人の多くも、ちょっとデリケートで内向的な妻の方のタイプではないかと思う。もちろん、良い意味で。

 

*カズオ・イシグロの他の短編の解説もよろしければ是非。

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降っても晴れても

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