「老歌手」 カズオ・イシグロ

「老歌手」 カズオ・イシグロ

「老歌手」の原題はCrooner。この単語は老いた歌手という意味ではなく、ラブソングを低い声でささやくように歌う男性シンガーのこと。「夜想曲集(音楽と夕暮れをめぐる五つの物語)」という短編集の頭に収められた作品だ。60年代に米国のスターであったトニー・ガードナーという老歌手が、妻とベネチアへ旅行をする。ガードナーは広場で知り合った旧共産圏出身のギタリストを伴い、ゴンドラ(交通・遊覧用の手こぎ舟)の上で、窓辺の妻に向かって切なく美しいセレナーデを歌う。
あらすじだけを読むと、ノーベル文学賞受賞の一流作家による清楚でお上品な物語と思うかもしれないが、受ける印象はそれとは随分違う。(先入観は大抵は外れる) 何より、展開がとても自然で読みやすい。スラスラと頭に入ってきて、雑味がないため読み疲れることもない。人物の描写にはリアリティがあり、特に会話が絶妙で上手い。例えば、老歌手の妻リンディの登場シーン。

「私の女房、リンディだ」とガードナーが言った。
ガードナー夫人は私ににこりと(やや無理をして)笑いかけてから、、夫に「で、どなた?お友達ができたのね」と言った。
「ああ、楽しく話をさせてもらっていた。この方は・・・失礼、君の名前をまだうかがっていなかった」
「ヤン」と私は反射的に答えた。「ですが、友人からはヤネクと呼ばれています」
「ニックネームが本名より長いんですの?」とガードナー夫人が言った。「そんなこともあるのね?」
「無礼はいかんよ、ハニー」
「無礼?わたしがいつ?」
「名前をからかってはいかん。レディのすることではない」
ガードナー夫人は当惑したような顔を私に向けた。「何のことかおわかりになる?わたしはあなたを侮辱したかしら」
「いや、とんでもないです」と私は答えた。

この短いやりとりから、夫婦間の微妙な空気(関係がうまく行っていないこと)や、老歌手が悪い人ではないこと、妻がステイタスを気にかけるタイプの女性であることなどが自然とイメージできる。このあとも微細な心の動きを適切な言葉で表現したシーンが続いていく。大人が書いた小説という感じで、良い意味で安心して読める。

有名人や成功者になるとどうしても名声や富がつきまとい、結婚の意味は一般人とは違ったものになるのだろう。こういう夫婦の関係もあるのか、と読んでいてしみじみ考えさせられた。
物語の締め方はとてもストレートで温度があり、良い読後感をくれる。短編のラストというと、すうっと抜いて開放したり、スタイリッシュに決めたり、意外な結末で印象づけたりするものが多いが、この「老歌手」は真ん中の直球という感じで熱い。
それと、さすがはユーモアのセンスに定評のある作家。途中で何度も吹いてしまった。

 

*カズオ・イシグロの他の短編の解説もよろしければ是非。

降っても晴れても

モールバンヒルズ

夜想曲

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夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)