「残り火」 スコット・フィッツジェラルド

この短編が書かれたのは1920年。今から、おおよそ100年前のことである。その頃のアメリカと言えば、第一次世界大戦が終わり狂騒の20年代に入ったばかり。文字通り狂ったように大騒ぎしていた頃だ。

「残り火」は、そうした輝く時代に生きた二組の男女をうらがなしく描いている。著者が自由奔放な美女ゼルダと結婚して間もない頃でもあるが、内容的に浮かれたところはほとんどない。

二組の男女のうち、片方の夫は病気で植物人間になってしまい、妻は看病に生きることになる。もう一組の夫婦は互いを許せず離婚し、夫は子供と離れ離れに暮らすことになる。フィッツジェラルドの作品には俗っぽさや軽薄さを感じる部分もあるが(だから読みやすくて退屈しないのだが)、どう転ぶかわからない人の運命を乱痴気騒ぎに明け暮れている若者とは思えない冷静な目で描いている。

「人生はあまりに速く通り過ぎていった。しかしそれが残して行ったものは苦い思いではなく、悲しみを見つめる心だった。幻滅ではなく、痛みだけであった。」

ピンとこないかもしれないが、よく読むと響いてくる。優しさを讃えた、なんと美しい言葉なのだろう。

原題はLees of Happiness、「幸せの風下」といったところだろうか。せつないタイトルだね。

フィッツジェラルドの短編には恋愛や家族を扱った作品が多い。(長編のことはよく知らないが) もちろん、ジャンルに収まらない非凡な輝きを放つが、題材の多くは色恋や家庭の崩壊などであり、個人的にはちょっと甘みが強いなといつも感じる。私は恋愛小説があまり得意ではない。艶っぽい場面を読むとき、いつだって早く終わってほしいと願いながら読んでいる。レイモンド・カーヴァーの作品でも時々、夫婦の甘いやりとりが出てくるとむずがゆくなって落ち着かなくなる。村上春樹作品のセクシャルなシーンなどは読み飛ばしてしまうこともある。作品に必要不可欠なシーンと言われたらそうなのかもしれないが、私には必要のないシーンなのだ。だって、恥ずかしいし、なんか気持ち悪いでしょ。同じような理由から、007よりも色気のないボーンシリーズの方が好きだ。ヘミングウェイやカポーティの短編にはそういう描写はあまり出てこない。多分、彼らも生理的に耐えられなかったのだと思う。(根拠は無いが)

あれ、何の話かわからなくなってきた。

まあ、結論としては、「残り火」は骨のある感じではないが美しい短編だと思う。

今回も浅い解読になってしまったが、読み流すにはこのくらい浅い方がいいでしょ。(と自分に言い聞かせつつパソコンを閉じるのでした…)

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