1971年、生きるためにスパゲティーを茹でつづけ、スパゲティーを茹でるために生きつづけた「僕」の物語だ。主人公の「僕」は、本格的な調理用具や食材、調味料、専門書をすべて揃え、一人でひたすらスパゲティーを作り、一人で食べる。それを春、夏、秋、来る日も来る日もつづけた。
12月、知り合いのかつての恋人だった女性から電話がかかってきて、知り合いの現在の居場所を教えて欲しいと迫られる。トラブルに巻き込まれたくない「僕」は、「本当に知らないんだ。もうずいぶん長い間会ってないしさ」と言う。でも、本当は住所も電話番号も知っていた。「わたしのことが嫌いなんでしょ?」と訊いてくる彼女に、「スパゲティーを茹でているところなんだ」と話を終えるために嘘をつく。電話を切った後、すべて教えてしまえばよかったと少し後悔する。どうせ、その知り合いは芸術家気取りの中身のない男なのだから。
というあらすじだが、村上春樹らしさが詰まった短編で、他の多くの作品同様にメタファーで全体が覆われている。正直なところ、解読する自信はないのだが、何事にも自らコミットしようとしない受け身な「僕」が陥った状況が描かれているように感じられた。世事を逃れて、誰とも関わろうとしない人間。今にも誰かがドアをノックして入ってきそうな気がするものの、実際には訪ねてくる者はいない。スパゲティーが「妄想」を象徴しているような、していないような、その辺はよくわからないが、若い頃に著者が味わったであろう都会(東京)に暮らす孤独感は、じわりと伝わってきた気がする。