「レーダーホーゼン」 村上春樹

この奇妙な短編が好きだ。「レーダーホーゼン」とは、ドイツ南部からオーストリアのチロル地方の男性が着る肩紐の付いた皮製の半ズボンのことで、ネットで画像検索するとわかるが、中高年の日本人男性がこれを履く姿はあまり想像したくない。

あらすじはこう。日曜日の雨の午後、妻の友人(スポーツマニアで未婚)が家に訪ねてくる。予定より二時間も早いため、妻は買い物で不在。妻を待っている間、彼女が出し抜けに両親の離婚話を始める。彼女の母は、五十五歳の時に妹の暮らすドイツへ旅行した。父を誘ったが、仕事を休めないという理由で一人旅となった。父は、レーダーホーゼンをお土産に買ってきてほしいと母に頼む。はじめての一人旅は母の心を解放した。

一人で旅行することはなんて楽しいのだろう、と彼女は丸石敷きの小道を歩きながらそう思った。考えてみれば、五十五歳の今に至るまで、一人旅をしたことなんて一度もなかったのだ。ドイツを旅行している間、ただの一度も寂しいとも怖いとも思わなかったし、退屈もしなかった。目を捉えるすべての光景が新鮮であり、新規なものだった。旅先で出会った人はみんな親切だった。ひとつひとつの体験が、彼女の中にそれまで手つかずで埋もれていた生き生きとした感情を呼び起こした。それまでいちばん近しく、大事に感じていたものはー夫と家庭と娘はー地球の反対側にあった。それらはもう頭にも浮かばない。

ハンブルクから一時間ほど離れた小さな町のレーダーホーゼンの専門店へ入った母。その店内で、耐え切れないほどの父への嫌悪感が湧き起こり、その場で離婚を決意する。帰国しても東京の家には戻らず、そのまま夫と娘を捨ててしまう。といったどこか奇妙な話だ。

なぜ、レーダーホーゼンなのか? 素直に解釈するなら「地球の裏側まで来て、どうして夫に縛られなきゃならないのよ、しかも半ズボンひとつのために」というところだろうか。腹の出た夫がレーダーホーゼンを履く姿は、確かに離婚の引き金になるほどビジュアル的にはきつい気もする。
物語のはじめの方で、妻の友人が未婚であることについて推測するくだりがある。そのあたりを結びつけて考えると、結婚という制度の否定にも読める。体格は自分とほぼ同じでスポーツ好きという妻の友人に、結婚しない道を選んだ自分を重ねていると解釈できないだろうか。ハルキストではないので、この程度で精一杯だ。
デビット・リンチの映画のようにあまりに謎だらけだと、根気のない自分の場合、お手上げと投げ出したくなってしまう。その点、「レーダーホーゼン」は謎が適量で楽しめた。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

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