一人称と三人称の話。

一人称と三人称の話。

夏目漱石の「三四郎」を読み返していて、いきなり冒頭の数行で引っかかり、読むのを一旦止めにした。

引っかかった文章というのは、これ。

うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんは慥か(*確か)に前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、駆け込んで来て、いきなり肌を脱いだと思ったら脊中に御灸の痕が一杯あったので、三四郎は記憶に残っている。

何だか、奇妙な文章に思えないだろうか?

「うとうととして ~ 田舎者である」の部分は誰の言葉なのか。主語は書かれていない。「爺さん」というフランクな呼び方をしており、「田舎者である」という表現にも主観的な印象を受ける。もう少し読み進めれば、それが明らかに三四郎の言葉だとわかる。であるなら、「三四郎は記憶に残っている」という三人称ではなくて「僕の記憶に残っている」と一人称にした方が自然ではないだろうか。

人称について、少し考えてみよう。

まず一人称とは何か?

これは小学生の時に書いた作文を思い浮かべるとわかりやすい。

「ぼくは、日よう日にどうぶつえんへ行きました。カピバラがかわいかったです。」

「わたしは、大人になったらアナウンサーになりたいです。早口言葉の練習を毎日しています」

といった私目線で書かれた文章のことで、日記や日誌なども一人称だ。

一人称は読みやすく、感情移入もしやすいが、私が知らないことは書けないというデメリットがある。「私はうれしかった。ヨシオも喜んでいるように見えた」のように、自分以外のことは想像で書くしかない。ヨシオが心から喜んでいるのか、ふりをしているだけなのか、私にはわからないからだ。

私が居ない場所についても書くことができない。あくまで自分目線なのだから、見ていないものは基本的に書けない。私が眠っている間の出来事も書けない。死後についても書けない。群雄割拠の戦国時代を一人称で書けと言われたら、かなり困るだろう。

視点の変更や客観描写がないため、一人称はシンプルで理解しやすい反面、スケール感や重厚感に欠け、子供っぽい文章になりやすいというマイナス面もある。

レイモンド・チャンドラーのマーロウものや、村上春樹氏の短編には一人称ものが多い。

二人称とは何か?

これはあなた目線で書かれた特殊な文章だ。

「あなたはこう語った。人というのは窮地に陥った時に本性が出るものだ。日頃は穏やかで・・・・」のような感じだろうか。制約が多いので、二人称の小説はほとんどないと思う。

問題は三人称だ。

三人称は自由度が高く、多様な形式に分かれている。

厳密な三人称の場合、観察者の視点に徹することになるので内面描写は一切できない。客観的に得られる情報だけに限定される。

が、神の視点などと呼ばれる三人称であれば何だって書くことができる。

「10才のトムは体が弱く、家で本を読むのが好きな物静かな少年だ。彼が10年後に世界的な冒険家になるとは誰一人として想像する者はいなかった」

この文章の語り手は、なんと未来のことを知っている。これぞ神の視点である。

先ほど、一人称の説明で「私はうれしかった。ヨシオも喜んでいるように見えた」と書いたが、これを神目線の三人称にすると、「タロウはうれしかった。ヨシオは喜んでいるように振る舞ってはいたが、心の中は嫉妬で燃えていた」と書けたりする。二人の人物どちらの本心も知っている、これまた神といえるだろう。なんだか神視点が最強に思えてくるが、感情移入という観点からみると、一人称にはかなわない。三人称神視点の場合、広範囲に緻密な描写を可能にするが、同化や共感が難しく、淡々とした文章になる傾向がある。

「三四郎」に話を戻そう。Wikipediaにはこう書かれている。

「三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。」

これは三人称単視点と呼ばれる手法かと思う(多分)。三四郎の箇所を「私」とか「僕」に置き換えることができるはずだ。ここでは神の視点を使っていないため、三人称でありながら、三四郎の知っていることしか描かれない。世の中の小説では、どうもこの三人称単視点が多いようだ。

主人公が途中で変わる三人称多視点というのもあるが、ちょっと読むのに疲れる。あれ、主人公が変わったの?この文章って誰目線?という感じで、読者に考えさせてしまう。文章力の乏しい作家がこれをやると、読者にとってはストレスフルな小説になる。

映像作品ではあるが、刑事コロンボは三人称多視点だ。はじめは必ず犯人目線で、途中からコロンボ目線に切り替わる。小説の場合だと、遠藤周作の「深い河」などがそれ。主人公が5人という小説だ。

「いやね、あたしゃてっきり、人称の説明がもっと面白い記事になると思っていましたがね、蓋を開けてみりゃ、説明ばっかりのちっとも面白くない記事でしょ、どうしたもんかとまいっちゃいましてね」

ちょっと疲れてきた。一人称か三人称かなど、興味の無い人にとっては退屈な話かと思う。本当は、何人称とか気にならない小説が一番良いのだ。

ちなみに私はヘミングウェイの短編が好きだが、お気に入りの「蝶々と戦車」「僕の父」はどちらも一人称で書かれている。ヘミングウェイは三人称のイメージが強いが(作品数としては三人称が多い)、ドライすぎてやや冷めた読書になることがある。ヘミングウェイは実在の人物をベースに書くことがあるため、一人称で書いてしまうと、激しいクレームが出てくる恐れがあったため、編集者の助言で三人称に書き換えたりもしていたようだ。

個人的には、チャンドラーもそうだが、ハードボイルドな文体で一人称というのが好みだ。いや、人称はどちらでもいいかな。

素っ気ない締めで、ゴメンナサイ。。。