「哀しみの孔雀」 スコット・フィッツジェラルド

「哀しみの孔雀」 スコット・フィッツジェラルド

原題は「Lo, The Poor Peacock」。邦題には訳出されていないが、loは「それ見たことか」的なニュアンスだろうか。poorには、おそらく金銭的な貧しさと人生の哀れの両方の意味が込められており、peacockはオスの孔雀のことなので主人公の男性のメタファーであるかと思われる。peacockにはcock(男性器)という単語が含まれているため、語感からはスラングの匂いも漂う。私の英語力ではこの程度の解釈が限界。当時のアメリカの景気後退を象徴したタイトルにも取れなくはないが、そこまで大仰なテーマではなく、パーソナルな話ではないかと思う。

仕事につまずき、収入が激減した主人公のジェイソン。妻は深刻な病で入院している。高い学費を払いつづけることが困難になり、娘を私立校から公立校へと転校させる。邸宅もやむを得ず手放し、借金返済のために売れそうなものはすべて質に入れた。潤いの失われていく暮らしの中で、ジェイソンと娘は次第に追い込まれていく。父親としての信頼感もすっかり地に墜ちてしまった。いよいよ崖っぷちに立たされたその時、娘が通うハイスクールの校長から電話が掛かってきた・・・

かつての栄華はどこへやら。悪いことばかり重なり、奈落の底へと転げ落ちていく。いかにもフィッツジェラルドという短編だ。言うまでもなく、凋落の一途をたどる主人公は著者自身とダブる。負の流れが加速していく状況を描くのはお手の物という感じで、ページをめくる手が止まらないほど面白い短編だ。

ただ、これは他のフィッツジェラルド作品にも感じることなのだが、ストーリーテリングの巧さや心地好いムードに惹きつけられはするものの、やや通俗的で物語に芯がないという印象を抱いてしまった。思い入れのあるファンの方には申し訳ないが、著者の作品を読むたびにこの点が引っかかる。もちろんクオリティは高いのだが、すべてが読後に淡く消えてしまうような希薄さを今回も感じた。

昨日、フラナリー・オコナーの「パーカーの背中」という短編の感想をアップしたばかりだが、同じように一人の男の零落を扱った短編ではあるものの、描き方はまったく違う。読後感もまるで異なる。オコナーの描くパーカーという男の精神はいびつであり、読み手にそれを容赦なくぶつけてくる激烈な一篇だ。壮絶なボクシングの試合のように荒々しく、お世辞にもスタイリッシュとは言えないのだが、容易に咀嚼できない硬い芯のようなものがそこにはある。フィッツジェラルドの方は、ツキに見放された悲惨な状況を描いていてもヤバさは無い。センチメンタルでどこか暖かいとさえ感じる。骨っぽくないため、ちょっと流行作家のような印象すら受けてしまう。(著者自身が「歯医者の待合室で退屈な三十分を共に過ごすにはうってつけの作家」と自らを形容している)

憶測だが、フィッツジェラルドはとても優しくて受け身の人だったのかもしれない。周囲の人にいつも気を使い、時代の空気にも抗えない優しい男。威圧的でなく、偏屈でもなく、根は素直で保守的な人であった気がする。記事を書いていて、ちょっと辛くなってきた。親近感を覚えるが、なんだかとても切ない。。。

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)