テレビ、ラジオ、映画、演劇、音楽、YouTube、それぞれが魅力ある媒体だと思うが、“心の周囲を取り囲む城壁を通過して内部へと侵入してくる感覚”は読書特有のものかもしれない。深いところへすうっと入り込み、揺さぶったり、掴んだり、やさしく触れたりするこの力を求めて、私は読書をしている気がする。
今回、文藝春秋が発行する「文學界7月号」に発表された村上春樹氏の新作「クリーム」は、そうした小説の力を感じさせてくれる短編だ。
あらすじ・・・
浪人中の「ぼく」の奇妙な体験を年下の友人に語る、というスタイルで物語は進む。18歳の頃、同じピアノ教室に通うたいして親しくない女の子から何故かリサイタルに招待される。「ぼく」は肌寒く曇った日曜日の午後、花束を買って神戸の山の上にあるリサイタル会場を訪れる。しかし、そこに人影はまるでなく、会場の鉄の扉は閉ざされていた。戸惑いを抱えながら近くのこぢんまりした公園のベンチに腰を下ろしていると、いつの間にか老人が目の前にいた。「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円をきみは思い浮かべることができるか?」と問いかけてくる。そういう円は確かに存在するが、血の滲むような努力がなければ見えない、へなへなと怠けずに必死に考えろ、と老人は発破をかける。
こういった謎めいた話だが、著者自身の若い頃のなんらかの記憶がベースになっているような短編だ。(今回の新作3篇はどれも「ぼく」(あるいは「僕」)の一人称で、思い出をもとにしている印象を受ける)
この短編、春樹色が濃い。村上春樹その人が書いているのだから濃度や純度が高いのは自然なことなのだが、自身のスタイルに対する迷いのなさを感じた。例えば物語の冒頭、予備校に行かず図書館で分厚い本ばかりを読んでいたと18歳の頃を振り返るのだが、その理由が「微積分計算の原理を追究するより、バルザック全集を読破する方がずっと愉しかったから」と表現している。こういうちょっとした言い回しに、著者らしい味わいを感じる。
不可解な説明のつかない出来事を、結論を提示しないまま終わるあたりも著者らしい。「原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要ではなかったような気がするんだ」と主人公に言わせている。「外周を持たない円」の意味も明示されない。それは具体的な図形ではなく、意識の中にのみ存在する円であり、理想や信仰を見いだしたりするとき、その円のありようを当たり前のように理解できるのではないかと「ぼく」に見解を語らせている。
理不尽な出来事の中で「ぼく」が得たものは何か。システムの奴隷にならず、思考に頼らず、理屈を超えて心動かすものを見つめつづけること。大切なのは外周(輪郭)を定める罫線ではなく、中心なのだ。これは、著者がこれまで言い続けてきたことと同じであるようにも思えるし、さらに強い私たちへの警告のようにも思える。