「夜想曲」 カズオ・イシグロ

「夜想曲」(原題:Nocturne) は、誇張して言えばドタバタ珍道中といった趣で娯楽性の高い短編だ。「降っても晴れても」の時にも書いたが、アメリカのテレビドラマを観ているようなある種の通俗的な楽しさがある。長編と比べると肩の力が抜けているというか、「夜想曲」というタイトルからイメージされるような感傷的な物語ではない。ロバート・デ・ニーロ、メグ・ライアン、ジョージ・クルーニー、レイモンド・チャンドラー、スティーヴン・キングといったメジャーな名前がちょいちょい出てくることもあり、堅苦しさもまったくない。

カズオ・イシグロの短編の魅力はプロットに負うところが大きいと思う。時に予想外の突飛な方向に話は展開していくが、軽妙な筆致によっていつの間にか引き込まれてしまう。おおらかでユーモラスな大人のムードも心地好い。(ギスギス、ピリピリした感じがない)「夜想曲」という短編は、2009年に出版された著者初の短編集「夜想曲集―音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」(原題:Nocturnes: Five Stories of Music and Nightfall)に収められた一篇だ。カズオ・イシグロは1954年生まれの63歳で、ミュージシャンを目指していた時期もあるようで音楽には特別な思いがあるのだろう。
短編に話を戻すと、「夜想曲」は別の短編「老歌手」と関連している。老歌手の妻リンディが、「夜想曲」では主役級で再登場する。同じ短編集の作品なので、流れ的には先に「老歌手」を読んでおいた方が良い。

あらすじは、メジャーになれないサックス奏者が周囲の熱心な勧めで顔の整形手術を受けることになる。術後、有名人の患者を秘密裏に宿泊させる高級ホテルに泊まっていると、伝説的セレブのリンディが隣に滞在していることを知る。突然、リンディがサックス奏者を部屋に呼び寄せる。どこかギクシャクしながらも二人は関わりを深めていく。そして、リンディがサックス奏者のために予想外の行動に出た・・・

ここから先は控えたい。前述した通り、筋立てが魅力の作家。次にどう展開していくのか見えてしまうと、読書の楽しみが半減してしまうので。

主人公のサックス奏者は音楽的才能には恵まれているが、外見の魅力に乏しいためかメジャーになれない。本人としては、ルックスや派手な宣伝で売れても、そんなものは道徳的な堕落にすぎない、情けないペテン師に成り下がるだけだと考えている。愛を切り捨ててでも貪欲にスターの座を手に入れるゴシップ女王のリンディとは価値観も生き方も異なる。しかし、サックス奏者は周囲の説得に乗せられて顔の手術を受けてしまった。結局は自分も同じ穴に落ちていくだけなのか。この事態を人生の転機として捉え、リンディのようにガツガツ生きるべきなのか。サックス奏者は心の中に異物を抱えて葛藤する。愛や魂を売ってでも成功を追い求める、それはありなのか。リンディが象徴するセレブへの道へ一歩足を踏み出したサックス奏者は、現実と理想の狭間で生き方の選択を迫られている。

*カズオ・イシグロの他の短編の解説もよろしければ是非。

老歌手

降っても晴れても

モールバンヒルズ

チェリスト

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

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