老いをどう生きるか。
- 2017.11.07
- ●雑記

今回は小説の話ではなく、最近思うことについて少し書こうと思う。
私は原稿を書いたり、レポートをまとめたりするため、ファーストフード店やカフェに入ることが割と多い。以前、長居しても咎められないので駅前のマクドナルドに入って仕事をしていると、横の席に何も買わず新聞を広げている老人がいた。はじめ気に留めずにいたが、どうも記事を読んでいるのではなく、ただ時間が流れていくのを待つように何もしていないのだ。数ヶ月後に同じマクドナルドに入ったところ、まったく同じ席に同じ老人が座っており、何とも切ない気持ちになった。おそらく、その席は老人の居場所で、毎日そこで長い時間を過ごしているのだろう。図書館のソファにも、公園のベンチにも似たような高齢者をよく見かける。数日前の毎日新聞に、定年退職後の夫の無気力さに不満を覚える妻の記事が載っていた。仕事を離れた夫にとって家は居心地の良い場所ではない、かと言ってやるべきこともやりたいことも特段無い。新しいことを始めるにも、ある程度の年齢になるとハードルが高くなる。そうした高齢者にとり、あり余った時間を潰す居場所づくりは切実な問題なのだろう。
一方で、趣味に生きる元気な高齢者も目立つ。休日の体育館はシニアスポーツの大会で盛り上がり、揃いのユニフォームで試合に臨む。技術レベルもモチベーションも実に高い。フルマラソンだって走る。百名山にも登る。本格的なロードバイクで駆ける。その熱量は、息抜きや気分転換の域をはるかに超えている。「もう責任を果たしたのだから、残りの人生は謳歌させてもらうよ」といった感じだ。
趣味の有無、どちらの人生が楽しいかと訊かれれば答えには迷わない。でも、どうなのだろう。まるで人生の明暗を分けるかのごとく映るが、どちらにしても「あり余った時間の潰し方」の違いでしかないようにも思える。そこが重要と言われればそうなのだが、特に社会的な意義があるわけでもなく、ただ自分のために金と時間とエネルギーを注ぐことが人生の謳歌なのだろうか。。。もちろん、楽しく生きるのが悪いなどとは思わない。個人の自由なので他人がとやかく言う問題でもないし、自分だってそうなるかもしれないので見透かしたようなことも言うべきではない。
ただ、僕らはそうした軽やかな高齢者たちを人生の先輩としてリスペクトできるだろうか。高齢者を一括りにして考えるのは乱暴ではあるとは思うが、そんなことをジクジクと考えてしまった。
昨年、ボブ・ディランの来日公演をオーチャードホールで観た。
まだ許せないものがある強い突き刺すような声に完全にやられてしまった。覚悟の凄みを感じた。御年76歳、いつかあんな風に生きたいな、というモデルになる高齢者だった。
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