5年間ブログを書き、確信したこと。

この『海外短編小説 解題』というブログを始めたのは2017年9月なので、既に5年を超えたことになる。更新が滞ることも多いので、5年をどう評価してよいかわからないが、まあどうにか続けている。アフィリエイトがモチベーションになっているかといえば、答えはNoだ。アドセンスの報酬は昨日35円、今日18円といった額なのでモチベーションといったかっこいいものにはならない。アマゾンの報酬もだいたい同じだ。
では何のために続けているかというと、考える動機になるというのが大きい。他の方はどうか知らないが、私は「考える=書く」というタイプの人間なので、記事にすることで思考が整理されて霧が晴れたり、思わぬ気づきを得られたりする。
これまで数百の短編小説についての記事を書いてきたが、一つだけ確信したことがある。
それは、わかりにくい小説はダメということだ。
やたらメタファーを用いて読者を悩ませる小説からは力を貰えないし、凝りに凝った頭でっかちの小説は例外なく退屈だ。理屈で書いたものに、人は魂を揺さぶられない。何度読んでも頭に入ってこない難解な小説は、偏屈さんや研究者たちの玩具でしかない。教授や評論家が書いた論文を読んでいると、膨大な情報をかき集め、細部まで緻密に分析し、短編小説に隠れた意味を見出そうと必死だ。賢い人たちだなと感心する面もあるが、作家のイマジネーションと遠く離れた場所にいると感じ、どうにも寂しくなってくる。
ピカソはこう言った。
「誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ」
「人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ」
チャップリンはこう言った。
「説明しなければ理解できないような美に対して、私はあまり寛容でない。もし創作者以外の誰かによって、その美について補足説明が必要ならば、私はそれが果たして目的を達成したと言えるのだろうかと疑う」
立川談志はこう言った。
「文学はわかりやすくなきゃダメ」
マリリン・モンローはこう言った。
「完全に馬鹿げているほうが完全に退屈よりマシよ」
ふと、2020年1月に一人で歩いた竹富島のコンドイビーチを思い出した。
太陽と海によって、理屈をすべて吹っ飛ばされるという体験をした。その感覚を忘れることができない。私がヘミングウェイ作品を好きな理由も同じで、いつだって理屈が軽視されている。
このブログのタイトルを『海外短編小説 解題』にしなければよかったと何度も思った。解題なんて退屈だし、堅苦しい。『海外短編小説 戯言ノート』に変えたいところだが、まあどっちでもいいか。
これからもワガママに書きたいことを書きたいように書くと思うので、どうぞ寛容な気持ちで末長くお付き合いくださいますよう宜しくお願い申し上げます。
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