カフェで見た恐ろしい光景(趣味のすすめ)

カフェで作業をしていた時のこと。
斜め前の席に70代と思われる高齢男性がひとりで座っていた。テーブルの上にはホットコーヒー。その男性は、両肘をテーブルに置き、ただ前方を見ていた。身なりは清潔で、若い頃は仕事ができたと思わせる雰囲気があった。
はじめ、考え事をしているように見えた。
しかし、5分経っても、10分経っても、ほとんど同じ姿勢のまま前を見ている。時々、頭に手をやったり、座り直したりするだけ。前には誰もいないし、特に何もない。
30分くらいしたところで、その男性が考え事をしているのではないことがわかった。
その逆で、考えることがないのだ。
何もしていないのではなく、何もすることがないのだ。
私は恐怖を覚えた。その男性が怖いのではなく、その男性が抱えている空白に怖さを感じた。健康であり、たっぷり時間もあるのに、何もしたいことがない。朝、散歩に出たものの、行き先がない。なんとなくマックに入るが、することがない。ただ座り、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
これほど怖いことがあるだろうか。
その高齢男性は、何かを始めるには年を取り過ぎているのかもしれない。気力がもう残っていないのかもしれない。
ただ、夜が来るのを待っている。夜になれば、食事をし、風呂に入り、眠ることができる。することがあるのだ。
これは勝手に私が想像したことで、まったく的外れかもしれない。でも私は勘が鋭い方だ。おそらく、想像通りだと思う。(根拠が弱いな)
先日、村上龍の「無趣味のすすめ」の記事をアップした。その中で、趣味には歓喜も興奮も達成感も充実もないという著者の見解に賛同すると書いた。確かに真の歓びは得られないかもしれないが、日常に少し潤いを与え、活力や動きを生みだし、そして何より恐ろしい空白を埋めてくれる効果が趣味にはあるのではないかと思いはじめている。カフェの高齢男性にはおそらく趣味がない。
「無趣味のすすめ」から「趣味のすすめ」へ。意見がブレまくっていると思われるだろうが、そうではない。村上龍氏も書いているが、趣味は老人のためのものだ。やることが何もないなら、趣味に生きる方がずっと健やかだ。
この高齢男性を見ていたら、どんどん気が滅入ってきた。悪いけど、こういう人にはなりたくない。生涯現役として生きる、改めてその思いが強くなった。
*最近、雑記が多くなっているが、アクセス数がちょっと伸びているので、雑記も受け入れられていると勝手に解釈して量産している今日この頃です。
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